やっぱり市立幼稚園の民営化に反対する 3(完)

前回、幼稚園民営化の是非は結局、大阪市議会で決まることで、私は一保護者として言うだけのことは言って、民営化が決まってしまったらあきらめる、と書きました。それが自由主義・民主主義であると。

ただ、この問題に限らず一般論として、民主主義とは結局、多数決ですから、少数者の保護はどうしても薄くなります。後から考えて、多数決で決めたことが間違っていたという例も、歴史上たくさんあります。

そんな多数決の危うさをどうカバーするかというと、多くの立憲主義国家では、司法権つまり裁判所が登場し、立法(国会や地方議会)や行政が多数決で決めたことが間違っていないか、審査することになります。

 

そして、民営化問題に関しても、実は近時、重要な司法判断が出ていました。私は恥ずかしながら弁護士であるのに最近までこの判例を知らず、幼稚園のママさん達から指摘を受けて知るに至りました。

最高裁平成21年11月26日判決です。

事案は、横浜市が、平成15年、市の公立保育所を全廃する旨の条例を市議会で制定し、その条例が争われました。

 

1審の横浜地裁(平成18年5月22日判決)は、ごく単純化していうと、在籍する園児たちの保護者との協議を充分つくさずに民営化を断行したことは行政の裁量として許される範囲を超えるものだと言いました。

そして、すでに民営化は終わってしまっているので、今さら公立に戻すのは混乱が生じるからそこまで言わないが、原告となった園児たちの保護者に1世帯あたり10万円の賠償金を払いなさい、と命じました。

 

2審の東京高裁(平成21年1月29日)は、条例そのものは、そもそも司法判断の対象にならないとして、保護者の訴えを却下しました。

ここは法律をやってない方には分かりにくいですが、たとえば、自衛隊が嫌いな人が「自衛隊法は憲法9条違反だ」と裁判したとしても、その人に具体的な不利益が及びもしていないのに、法律の存在そのものを争うのはできないことになっている、と理解してください。法律をやってる方は、行政事件訴訟法9条の処分性の要件のことだとお分かりでしょう。


これに対して、最高裁は言いました。

条例は公立保育所の廃止を定めており、それは当時の園児たちに、近い将来、公の保育が受けられなくなるという不利益を及ぼすではないか、だから司法審査の対象になるのだ、ということで、東京高裁の判断は誤りだとしたのです。

しかし、最高裁判決の時点で当時の園児たちはすでにみんな卒業してしまっており、もはや裁判する実益がない、ということで、最終的に、保護者の請求を棄却しました。

もっとも、最高裁が、公立の保育施設を条例により廃止する行為は、裁判所による司法判断の対象になると明言したことは注目されるべきです。

 

大阪市役所と大阪市議会は、よくよくこの最高裁判決の言わんとする趣旨を理解すべきです。

そして、もし大阪市議会で公立幼稚園の廃止が可決されたら、あきらめずに司法の場に打って出ることも視野に入れつつ、今後の動きを見守っていきたいと考えております。

やっぱり市立幼稚園の民営化に反対する 2

続き。

前回書いたとおりで、大阪市の各区長が市立幼稚園民営化への理解を求めて、各幼稚園を回っておりますものの、民営化を不安視する保護者側と、ご理解くださいと繰り返す大阪市側との相互理解に至る見込みは到底ありません。

しかし、これは言ってしまえば仕方のないことで、幼稚園民営化に限らず、国政・市政上の問題については、いかに説明や議論を尽くしたところで、万人が納得しうる回答に到達するのは不可能なのです。

 

たとえば、私は前回、長く残っているものにはそれだけで価値がある、だから大阪市の公立幼稚園は残すべきだ、と書きました。

しかし、橋下市長と各区長と、維新の会の面々からすれば、長く残っているものなど、官僚主義などの旧弊のカタマリであり、既得権益の巣窟であり、そんなものは徹底的に打破していかなければならないと考えているに違いありません。

両方の見解について、どっちが正しいとは言い切れません。前回書いたとおり、市立小学校の民間校長が早速失敗していることなどを見ると、私は私自身の価値観が正しいと信じますが、市長や維新の連中もまた、自分たちの価値観が正しいと信じています。そうなると、これは議論で解決する類の話ではなくなります。

 

日本や欧米などの先進国は、憲法によって各人の価値観や言論の自由を厚く保証しているので、いかなる価値観も一応は尊重されることになります。これが立憲主義、自由主義の考え方です。

その上で、価値観がぶつかったときには、議会の多数決で物事を決めることになります。それが民主主義です。

 

橋下市長と維新の会は、いま明らかに勢いを失っていますが、大阪での過去の選挙に限っていえば圧勝を続けています。橋下市長の失策、失言が続き、維新の会から離党者が出たとは言え、いまでも支持者はそこそこ多いでしょう。

幼稚園民営化の具体的プランは、区長の言うところによればこの8月には発表され、大阪市議会でそれに対する信が問われます。維新の会は当然、賛成に回りますし、いつも日和見の公明党も賛成に回れば、過半数を制して可決されます。

 

そうなったら私はどうするかと言われれば、憲法の下で民主主義により決めたのなら、もう仕方がないと思っています。

幼稚園がもし民営化によってガタガタになったとしても、自分の息子くらいは立派に育てる程度の自信はあります。そして息子が大きくなったら、幼稚園のころに混乱が生じるのを止めてあげれなかったことを詫びたいと思います。

そして、

「お前が幼稚園に行ってたころは、橋下とかいう市長と維新の会って政党がすごく人気があったんや。でもなあ、お父ちゃんは、あんなの最初から、うさん臭いと思って一票も入れたことはなかったぞ。口だけうまい連中にあんまり大きい権力を持たせたらアカンのや」

ということを、合わせて聞かせてやりたいと思っています。

 

もう一回だけ続きます。飽きてなかったらお付き合いください。

やっぱり市立幼稚園の民営化に反対する 1

最近、この話題が多くてすみません。特に興味のない方は読み飛ばしてください。

 

大阪市では今、市政はゴタゴタとしておりまして、府の水道事業との統合は否決、大阪市営地下鉄の民営化は継続審議、橋下市長の目論んでいた大阪都構想など最近話題にすらならない、という状況です。

それでも、市長は今もなお、大阪市立幼稚園・保育所の民営化は、意地にでもなっているのか進めようとしていて、公募で市長に選ばれた各区長が、幼稚園などを回って民営化に向けた説明会を開いています。

 

我が大阪市西区の高野区長は、仕事熱心で、橋下市長の号令のもと、任務を忠実に遂行しようとしているのは分かるのですが、説明会で言っていることはムチャクチャです(これは高野区長が不誠実なのではなく、橋下市長が何も考えてないためです)。それをいちいち挙げるとキリがないので、少しだけ紹介します。

 

区長が幼稚園に来て言うには、市立幼稚園を廃止するのは、財政難が主たる理由でなく、民間を活用することで幼児教育の底上げ、つまり全体のレベルアップをする、ということにあるのだそうです。

では、それは具体的にどのように行われるのですか、との問いに対しては、「幼児教育のカリキュラムを作成していく」とか「教育委員会に幼児教育のスペシャリストを招き、教育委員会が幼児教育に積極的に関わっていく」とか、官僚が頭の中だけで考えたみたいな答弁に留まります。

その程度の、「これから考えていきます」みたいなやり方で、幼稚園に限らずあらゆる公的制度を潰そうとしているのが、今の市長とその子飼いの区長たちです。

 

ところで先月、公募で大阪市立小学校の校長に選ばれた人が、3か月で辞めてしまったという一件がありました。公教育に民間の力を投入すればうまくいく、という市長の考えが、この一事をもってしても、誤りだったことが露呈したわけです。

しかも橋下市長はこのことについて釈明を求められて「自分に人事権はないから責任はない。教育委員会の責任だ」と言いました。このように、大阪の公教育は、何があっても責任を取らないトップにかき回されているのです。

 

区長は幼稚園でこうも言いました。「公立幼稚園を残したいというのであれば、公立を残すだけの積極的な理由は何か、公立でないとできないことは何か、それを聞かせてほしい」と。

 

私は、古いもの、長く続いているものというのは、長く残るだけの良さがあって続いているのであって、そのこと自体が貴いものだと考えています。

私がよく行く老舗のバー「サンボア」は創業以来95年、京都・大阪を中心にのれん分けしつつ続いています。もっと大きな話になると日本の天皇は2000年以上続いています。

大阪の市立幼稚園は、いまきちんとした資料が手元にないですが、園の数を徐々に増やしながら、130年以上続いているはずです。

 

しかし、市長や区長はそういったものに価値を見出さないようで、公的制度や施設は潰せば潰すほど良いと思っているのでしょう。さらに言えば橋下市長はその時々で最も大衆受けしそうなことを言う(その意味では姿勢は一貫している)ので、行政の継続性や安定性、それに市民が寄せる安心や信頼感というものに重きを置かないのです。

これまで長年続いてきたものを潰すと言ってる側が、潰すだけの積極的な理由を何も説明せずに、潰さず残しておいてほしいという人に対して「潰さない理由を説明しろ」と言っているわけですから、相当に乱暴と言いますか、本末転倒な議論のやり方です。

 

ゴタゴタと書きましたが、次回もう少し続くかも知れません。

コメント管理に関するお詫び

読者の方にはお詫びしなければならないのですが、当ブログに寄せられたコメントの一部を、私が間違って削除してしまったようです。

最近、当ブログに毎日のように、多数の英語・中国語でのスパムコメントが送られてきて、一括削除しているうちに、誤って、きちんとしたコメントも消してしまったものと思われます。

 

なお、スパムコメントを送ってくる投稿者は「anonymous」(アノニマス)といい、同名のバーが東心斎橋にもあり私もごくたまに飲みに行きますが当然それとは関係なく、海外のハッカー集団の名前です。

このanonymous、以前、日本の官庁街の中心である東京の「霞ヶ関」にサイバー攻撃をしかけようとして、間違えて茨城県の「霞ケ浦」という湖の管理事務所をハッキングしたという、なかなか愛すべきアホなこともしでかしています。

 

もっとも、当ブログが高名なハッカー集団からマークされているとは到底思われず、したがってコメントを寄せてくる人は本物のanonymous の人ではなくて、単なるスパムであると思われます。

いずれにせよ、私のほうで「送信者をanonymousとするコメントは一括削除」という処理をしていたつもりが、一部のちゃんとしたコメントまで削除してしまっていたようです。

コメントを寄せていただいた方には、たいへん申し訳ありません。

 

特に最近では、大阪市立幼稚園の民営化に関して、個人的にはたいへん参考になるコメントを寄せていただいていたのに、削除してしまったことを、投稿者の方には重ねてお詫びします。

別に、大阪市や西区から圧力がかかってコメントを削除したわけではありませんので(市や区だってこんなブログにいちいち取り合っていません)、その点は付け加えさせていただきます。

今後のコメント管理はよくよく気を付けますので、何卒よろしくお願いします。

 

市立幼稚園の民営化に反対する(続)

少し前に、大阪市の公立幼稚園民営化に関する話を書きました。私が幼稚園児の子を持つ親であるという理由でこの問題には興味を持っているのですが、それにとどまらない問題も含んでいると思うので、もう少しだけ書きます。

(前回の記事はこちら

前回も書きましたが、大阪市のホームページによりますと、公立幼稚園を民営化する理由は、①市の財源上の負担軽減化、②公立と私立の保育料の負担の平等、③民間でできることは民間でやるという理念、といったあたりです。

 

①については、前回触れました。公立幼稚園を全廃すると、市の予算が年間25億円浮くそうですが、国と大阪府の私学援助が増える(年間10億円)という問題があります。

国と府が私学援助をヤメます、と言うと、幼稚園が潰れるか、保護者が年間20万円程度を支払って支えるかしないといけなくなるのですが、大阪市が今後の国と府の負担について、確約を取るなど何らかの手当をした形跡はない。

そもそも、年間25億円というと、大阪市の年間予算(約2兆6600億円)の0.1パーセントです。0.1パーセントを浮かすために、公立幼稚園を全廃し、その教職員を全員クビにするという了見が、私には理解できません。

 

②の、公立と私立の負担の平等という点も、「平等」と言われると反対しにくい雰囲気になってしまいますが、多分にマヤカシが含まれています。

私立幼稚園に入学させる親は、公立に入れたかったけど抽選にもれてやむなく、という人もいるにはいると思いますが、積極的に私立を選ぶ人もいます。教育内容、ブランドイメージ、施設、制服、バス送迎などです。ちなみに私の亡き祖母も私立幼稚園に私を入れたがり、そのため私はバスに乗って私立幼稚園に通っていました。

「公平」を唱える大阪市(具体的には市長)が、保護者アンケートの統計を取って、実際に不公平感を持つ親がどの程度いるのか検証したのかというと、その形跡はありません。頭の中で考えただけの「公平」です。

 

③の、民間でできることは民間でという理念は、市長に限らずスローガンとして好きな人は多いですが、これも前回書いたとおりで、それを徹底するなら、警察庁と自衛隊と裁判所くらいを残しておいて、大阪府も大阪市もなくしてしまえばいいのです(当然、大阪都も要らない)。

おそらく多くの人は、それはさすがに極端だ、と思うでしょう。ですから問題は、官から民へという抽象的なスローガンで片付くことでなく、どの部分を「公」が担い、どこを「民」がやるか、そのベストの線引きはどこか、ということです。その検証作業もされたとは思えません。

そして、公立幼稚園を廃止するという、そこで線を引くならその積極的な理由づけは何なのか、という説明もされているとは思えない。

抽象的理念から、いきなり飛躍して具体的な結論を導いてしまうのは、市長の悪いクセですが、この問題に限らず、こういう議論の仕方には注意しなくてはいけません。

 

民間に任せれば多様なニーズを取り入れて幼稚園教育が充実する、という説明もされていますが、幼児教育という、一種の高度な専門性を要する領域に、「市民ニーズ」を取り入れるというのがそもそも私には理解できません。

また、ニーズというのであれば、私がそうであるように「子供は公教育で育てたい」というニーズも現にあるのであって、そのニーズに限っては無視してしまう理由もわかりません。

 

こんなよくわからない理由で公教育を解体させてしまっては、大阪市の将来に禍根を残すように思えます。この問題は現在進行形のことで、今後も現場リポート的に触れるかも知れませんが、興味のある方はお付き合いください。

矢口真里の不倫と慰謝料

憲法改正という、多少かたい話が続いたので、何かやわらかいネタでも、と思っていたところに、矢口真里・中村昌也夫婦の不倫、離婚騒動があったので、これについて少し。

 

とはいえ私、この2人のことは全然知りませんでした。この2人が結婚するときに、身長差カップルとか言われて芸能ニュースのネタにされて、女性のほうは元モーニング娘のメンバーらしい、と聞いた程度です。

おニャン子クラブとか、AKB48であれば、顔と名前がそこそこ一致しているのですが(といっても神セブンくらいの人に限ります)、モーニング娘は全然知りません。加護ちゃんの顔はわかりますが、それもタバコ吸ったとかで問題になったのがきっかけでした。

どうしてモーニング娘に限って、スポッと抜け落ちているのだろうと思ってウィキペディアを見てみたら、モーニング娘の活動は平成9年(1997年)以降で、そのころ私は司法試験の受験生でした。

当時、観ていたテレビといえばNHKの朝6時台のニュースだけで、勉強ばかりしていました。あとは息抜きのレーザーディスク(DVDではない)でブルース・リーやらチャウ・シンチー(少林サッカーの人)の映画を見る程度でした。

 

今日は論じる中身が薄いので雑談ばかりです。すみません。

 

法律的なことを言うと、矢口が夫の中村の不在中に、他の男(梅田賢三。この人も知らないなあ)を連れ込んで、裸で寝ていたというわけですから、性行為に及んだとしか考えられませんが、これは明らかに民法770条1項1号の「不貞行為」です。

この場合、夫(中村)は妻(矢口)に離婚を求めることができる。離婚を求める権利があるということですから、矢口が嫌だと言っても、裁判を起こせば離婚できるということです。結局は、協議離婚の形で別れたようですが。

あと、中村は矢口に、婚姻破綻の原因を作ったことについての慰謝料を請求できるし、またその原因となった梅田に対して、婚姻関係を侵害したことの慰謝料を請求できる。

夫婦の一方が浮気した場合の慰謝料は、私の感覚や経験では、200万円程度です。矢口がいくら払ったかは知りませんが、判例の相場にあてはめると、200万円くらいを払うことになる。

不倫相手となった第三者の慰謝料は、100万円から150万円程度でしょうか。これが梅田の支払うべき額です。

なお、慰謝料は、やったことの悪さに応じて決まるので、その人の収入に関係しません。

 

他には、財産分与といって、婚姻生活中に築き上げてきた2人の財産を等分に分けることになります。

中村・矢口夫婦がそれぞれ、どの程度の収入であったかは知りませんが、結婚生活は2年だけということですから、その間に築いた財産といっても、そう大した金額ではないのだろうと思っています。


それから、矢口は、夫のDVが原因で浮気したと言ったとか、言わなかったとか、どちらか知りませんが、そんなことを公言すれば離婚慰謝料とは別に名誉毀損の慰謝料も払わないといけないように思われます。

法律的には以上です。

新年のごあいさつ

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

年をまたいで久々の更新となってしまいました。

ブログは高嶋政伸の離婚が成立したところで止まっていて、その後、民主党から自民党への政権交代があったり株価が上がったりと、政治経済的には変動が多々ありました。

しかし当ブログでは引き続き、市井の一弁護士として、裁判や法律問題を中心に書く、政治批判や芸能ネタに渡ることがあっても、あくまでも法解釈という観点からの考察を行う、ということを心がけたいと思っています。

 

さて、新年最初の話題は、私の息子の話なのですが(と、さっそく法解釈に関係ない話ですみません)、例年この時期に書いておりますとおり、1月1日生まれの息子は、この元旦で4歳になりました。

相応に知恵もついてきて、生意気な口をきくようにもなり、ウソやゴマカシが利かないようになりつつあります。

元旦のお日さまを見るたびに、この子が母(私の妻)のお腹から出てきたときのことを思いだすのですが、また初心に戻って、公私ともにゴマカシのない、子供に恥じない親であるよう、私も成長していきたいと思っております。

 

私の弁護士業は13年目に入りました(ちなみに、私が弁護士に登録したのは平成12年、西暦で2000年なので、西暦の下2ケタが、私の弁護士業のキャリアを表します)。

今後もますます勉強し精進してまいりますので、今年もよろしくお願いします。

 

…今回は無難すぎで面白くない文章ですみませんでした。

高嶋政伸の離婚裁判についての点描 2

前回の続き、といいますか、離婚裁判についての一般的な話から始めます。

誰しもご存じだと思いますが、協議離婚や調停離婚が整わないときに、裁判所の判決で離婚をさせてもらうのが裁判離婚です。

つまり裁判離婚は、夫婦の一方が離婚したくないと言っても裁判所が離婚させるわけですから、婚姻が破綻しているのか、「婚姻を継続しがたい重大な事由」(民法760条)があるのか、慎重に判断されます。

 

ですので、単に夫婦の一方が別れたいと思うだけでは離婚はできないのですが、これに関して、私が同業の先輩から聞いていて、かつ私自身もその通りだなと思うことがあります。

それは、「夫は別れたいが、妻は別れたくないと思っている」場合と、「妻は別れたいが、夫は別れたくないと思っている」場合とでは、後者のほうが裁判離婚が認められやすい、ということです。

その理由は想像できます。夫は妻に捨てられても食っていけるし、それに外で愛人ができて妻を追い出したいと考えている場合もある。それに比べて、妻は夫に捨てられると食っていけないので、妻が別れたいというからには相当の事情があると見られがちである、ということだと思います。

もちろんその考え方は、女性の経済力の向上、男女平等意識の高まりを踏まえて、今後変わっていくでしょう。

 

もう一つの理由、これは、私が過去に見聞きした極めて狭い範囲でのお話しということでお聞きいただきたいと思いますが、それは、離婚裁判に際して、自分を客観的に見ることのできる男性が少ないということです。

具体的には、妻が「別れたい」と言っているのに対して、夫は「別れたくない、自分はまだ妻や子供をこんなに愛している、妻や子のためにこれまでこんなに努力してきた」と、そういう「自分の」ことばかりを強調しようとしがちです。

では奥さんがどうして、そんなあなたと別れたいと思ったのか理解できますか? 今後、奥さんとどうやって関係を修復していこうと考えているのですか?と私や裁判官が聞いても、あまりきちんとした答えがでてきません。

(ちなみに女性は、別れたい理由、別れたくない理由、別れるための条件、関係を修復する方法など、割と合理的に話す方が多いです)

自分の思いを強調すれば裁判官はわかってくれる、と信じているのかも知れませんが、それは明らかに逆効果です。自分の思いばかりを主張する夫に対して、裁判官は「思いこみの激しい人だ、その思いこみの激しさが、夫婦関係を破綻させたのだろう」と推測します。

 

さて、高嶋政伸と美元の話に戻ります。芸能ニュースを見て言ってるだけなので、間違っている可能性も多いにありますが、東京地裁が裁判離婚を認めたのは、一言でいえば、美元の思いこみの激しさだと推測しています。珍しく、というべきか、女性側の思いこみが激しかったケースです。

高嶋政伸が別れたいと言っているのに対して、美元は(たぶんマスコミで報道されることも計算しつくした上で)「今でも愛している」とか「法廷で会えてうれしかった」という、ときに奇矯とも思える発言を繰り返すばかりであった。

今後の関係の修復に向けた冷静で合理的な主張はなく、それどころか、夫婦ケンカのときの録音テープを証拠に持ち出したりして、二人の夫婦関係をどうしたいのか、最後までよくわからなかった。

そのあたりが、高嶋政伸勝訴の原因だったと、勝手に推測しているのですが、訴えの取下げ、協議離婚で一件落着したのは前回書いたとおりです。

高嶋政伸の離婚裁判についての点描 1

高嶋政伸と美元の夫婦の離婚訴訟が決着しました。1審では高嶋政伸の離婚請求が認められ、その後、高嶋政伸が訴えを取り下げ、協議離婚が成立したようです。

 

訴えの取下げに関して少しだけ解説しますと、原告(本件では高嶋政伸)は、判決が確定するまでの間、訴えを取り下げることができます。敗訴した美元が高裁へ控訴するかしないかギリギリの時期でしたが、控訴できる間は地裁の判決は確定していないので、この時点での取下げはもちろん可能です。

ただし取下げには被告側(美元)の同意が必要です。取下げというのは、勝ち負けを決めないままに訴訟を終わらせるということですので、もし訴えられた側が、勝ち負けハッキリさせたいと考えていれば、取下げで終わらせることはできません。

今回の訴訟では、訴えを取り下げることに美元が同意し、その際、離婚条件について話し合いが行なわれて、お互い離婚届にサインして、協議離婚ということになったものと思われます。

 

芸能ニュースではこれまで派手に報道され、訴えの取下げという顛末を意外に感じた方もおられるかも知れませんが、弁護士としては、ありがちな話だなと思っています。

調停や裁判で離婚が決まった場合、離婚届に双方サインしなくても、裁判所の判断の結果として離婚が自動的に成立します。そして戸籍には「調停により離婚」「裁判により離婚」と記載されます。美元が実際にどう思ったかは知りませんが、それを嫌う人は多いようです。

私も過去の依頼者の案件で、離婚調停のあとで、互いに合意の上で協議離婚の形をとって終わらせたケースがいくつかあります。この場合は、戸籍には「協議離婚」と記載されます。

同じ話を、戦後の民法の第一人者であった故・我妻栄氏が、書いておられます。

要約すると、「離婚の話を裁判所に持ち出したとなれば、世間的には、何か因縁をつけたように見られ、再婚にも差し支える。協議離婚だといえば、穏やかな話し合いの結果だと認めてもらえる」と、多くの人が裁判を嫌うのはなぜか、という随筆の中で触れられています(作品社「日本の名随筆 裁判」)。

美元はこの裁判で有名になってしまったので、裁判で離婚を争った過去を消せないと思うのですが、やはり戸籍にそれが載るのはイヤ、と思ったのかも知れません。

 

もちろん、戸籍の記載だけでなく、今後高裁で延々と争っていくことの手間や時間を考え、また離婚条件についても双方の納得ずくで話し合える(裁判離婚となると離婚条件は裁判所が決める)ことを考えると、双方にとって、訴えの取下げにより協議離婚するメリットは大いにあったと思います。

一部報道では、訴えの取下げによって「裁判はなかったことになった」と報じられていましたが、両者にとっては、この裁判は納得ずくでの協議離婚に至る過程として、決して無駄ではなかったと思います。

 

さて、東京地裁がそもそも、高嶋政伸を勝訴させた原因はどこにあったのか、という点については、私なりに思うところもあるのですが、そのあたりは次回にでも書く予定です。

「豊かな言葉」について弁護士が考えたこと 2

前回、プラトンの「ソクラテスの弁明」にもとづいて、ソクラテスに死刑判決が下ったところまでお話ししました。その続きを、同じプラトンの著書「クリトン」「パイドン」に沿って書きます。

 

ソクラテスは牢屋に入れられ、死刑を待つ身となりました。しかし、いまだソクラテスを支持してくれる有力者もいて、彼らは、牢屋の番人にワイロ(裏金)を渡してソクラテスを脱走させる準備をします。

そして、ソクラテスの弟子のひとり、クリトンが牢屋にやってきて、「あんなデタラメな裁判にしたがう必要はない」と、ソクラテスに脱獄するよう言ったのですが、ソクラテスはきっぱりと断ります。

有名な「悪法もまた法なり」の話です。ソクラテスは言いました。

「私はこれまで、アテナイの住民として、アテナイの国と法律に守られながら、平穏に暮らしてきた。いま、国が法にのっとって決めたことが、たまたま私に都合の悪いことだからと言って、それを破ることはできない」と。

そして死刑執行の日、ソクラテスはたくさんの弟子に囲まれながら、アテナイの役人から渡された毒いりの杯を静かに飲みほし、死んだのです。

 

何とまあ、ソクラテスはガンコで変わった人のようでした。それでも、自分の信じるところに従って、最後まで自分の言葉を曲げずに、堂々と死を受け入れた、そのあたりに、一種の爽快さを感じます。

私はいま弁護士となって、言葉や論理を武器に仕事をしているわけですが、もしかしたら、中学生のときにソクラテスから受けた強烈な印象が、弁護士を目指した原因の一つになっているのかも知れません。

 

豊かな言葉について書くと言いつつ、ぜんぜんそんな話になってない、ですって?

まあ、それが大人の社会というものです。そもそも、ネットの見出しに大きな期待を寄せてはいけません。ネットに書かれてあることは、このブログも含めて、ろくでもないことばかりです。ネットで豊かな言葉を探すヒマがあったら、今すぐパソコンの電源をオフにして、プラトンでも何でも読んでみましょう。

 

「何か言葉を拾わないと課題が完成しない」という人に、最後に一つの言葉を紹介します。

ソクラテスが毒を飲んで横になり、それが全身に回って、もうすぐ死ぬというとき、ソクラテスはふと顔をあげてクリトンに言います。

「アスクレピオスに鶏を捧げておいておくれ」と。これが最後の言葉になりました。

アスクレピオスとは、古代ギリシアの医学の神様で、当時の人々は、病気が治ったとき、この神様に鶏をお供えする習慣があったそうです。ソクラテスは、死んで魂が肉体から解放されることを、病気から回復することのように考えていたのでしょう。

みなさんもこの冬、風邪などひいて学校を休んでしまったりしたら、風邪が治って学校に復帰したとき、「ふ、アスクレピオスに鶏を捧げてきたぜ」とでも友達のみんなに言ってみてください。カッコいいかどうかは責任持ちませんが。

おわり。