信用取引の恐ろしさについて

最近の株価の乱高下ぶりは、株を一切やってない私でもハラハラさせられますが、さらに気が気ではないくらいなのは、株の、しかも信用取引をやっている方でしょう。

昨日の産経朝刊で、「信用取引で投資家に痛手」という見出しが出ていました。今後、この問題が大きくなりそうな気もするので、少し解説します。

 

元手以上の大きな取引をするのが信用取引です。

産経の記事によると、信用取引では自己資金の約3倍まで投資ができます。

たとえば100万円で株を買おうというとき、普通の取引(現物取引)だと100万円分の株しか買えませんが、信用取引だと300万円分も買えます。残りの200万円はあとで清算します。

これで、もし株価が2倍になったとしますと(実際、去年の政権交代前の株価と、先月の暴落直前の株価とでは、2倍ほどの差がありました)、100万円の自己資金で600万円を手に入れて、まだ払ってない株の代金200万円を払っても、まるまる300万円の得になります。

このように、うまく行けば利益が3倍になるものの、うまく行かないと損も3倍になります。

価格が下落した株を大量に抱えて、かつ株の購入代金も清算できずに、大損をした人が、かなりいるはずです。


怖いのは、信用取引で多額の損を抱えても、破産したところで免責されない(債務をチャラにしてくれない)、という点です。

破産法252条に、免責不許可事由(こういう場合は債務を免除しない、という事情)が列挙されており、その中に、「賭博その他の射幸行為をしたことによって過大な債務を負担した」場合(要約)というのが掲げられています。

射幸行為(しゃこうこうい)とは、賭博、ギャンブルと同じようなもので、大儲けを狙う行為です。サラ金からの借金でパチンコばかりやって破産しても、サラ金の負債はチャラにできないというのと同じ理屈です。

 

実際、過去に私も、信用取引で何千万円もの損をした人の破産申立てをしたけど、免責されなかったという経験があります。

しかもその方は、証券会社から信用取引の元手を借りて、それをその証券会社を通じて信用取引にまわしていたのです。損が出ると途端に、その証券会社が、貸した元手と、株の購入代金の残りを払ってくれ、と言ってくる。

この方に限らず、証券会社からお金を借りて信用取引をして、先月末からの株価暴落で大損をした人はきっと多いと思います。そしておそらく多くの場合、証券会社が顧客を相当にあおって取引をさせていたのであろうと想像しています。

株式の信用取引だけでなく、私の事務所には、商品先物取引とか、通貨スワップとかの投資で大損したという相談が多く、それらの事例では、顧客が欲を出したという側面もあるものの、業者側が相当にあおっています。

特に株の信用取引の場合、証券会社がお金を貸し付けてまで取引させているわけですから、相当に問題があるのではな

矢口真里の不倫と慰謝料

憲法改正という、多少かたい話が続いたので、何かやわらかいネタでも、と思っていたところに、矢口真里・中村昌也夫婦の不倫、離婚騒動があったので、これについて少し。

 

とはいえ私、この2人のことは全然知りませんでした。この2人が結婚するときに、身長差カップルとか言われて芸能ニュースのネタにされて、女性のほうは元モーニング娘のメンバーらしい、と聞いた程度です。

おニャン子クラブとか、AKB48であれば、顔と名前がそこそこ一致しているのですが(といっても神セブンくらいの人に限ります)、モーニング娘は全然知りません。加護ちゃんの顔はわかりますが、それもタバコ吸ったとかで問題になったのがきっかけでした。

どうしてモーニング娘に限って、スポッと抜け落ちているのだろうと思ってウィキペディアを見てみたら、モーニング娘の活動は平成9年(1997年)以降で、そのころ私は司法試験の受験生でした。

当時、観ていたテレビといえばNHKの朝6時台のニュースだけで、勉強ばかりしていました。あとは息抜きのレーザーディスク(DVDではない)でブルース・リーやらチャウ・シンチー(少林サッカーの人)の映画を見る程度でした。

 

今日は論じる中身が薄いので雑談ばかりです。すみません。

 

法律的なことを言うと、矢口が夫の中村の不在中に、他の男(梅田賢三。この人も知らないなあ)を連れ込んで、裸で寝ていたというわけですから、性行為に及んだとしか考えられませんが、これは明らかに民法770条1項1号の「不貞行為」です。

この場合、夫(中村)は妻(矢口)に離婚を求めることができる。離婚を求める権利があるということですから、矢口が嫌だと言っても、裁判を起こせば離婚できるということです。結局は、協議離婚の形で別れたようですが。

あと、中村は矢口に、婚姻破綻の原因を作ったことについての慰謝料を請求できるし、またその原因となった梅田に対して、婚姻関係を侵害したことの慰謝料を請求できる。

夫婦の一方が浮気した場合の慰謝料は、私の感覚や経験では、200万円程度です。矢口がいくら払ったかは知りませんが、判例の相場にあてはめると、200万円くらいを払うことになる。

不倫相手となった第三者の慰謝料は、100万円から150万円程度でしょうか。これが梅田の支払うべき額です。

なお、慰謝料は、やったことの悪さに応じて決まるので、その人の収入に関係しません。

 

他には、財産分与といって、婚姻生活中に築き上げてきた2人の財産を等分に分けることになります。

中村・矢口夫婦がそれぞれ、どの程度の収入であったかは知りませんが、結婚生活は2年だけということですから、その間に築いた財産といっても、そう大した金額ではないのだろうと思っています。


それから、矢口は、夫のDVが原因で浮気したと言ったとか、言わなかったとか、どちらか知りませんが、そんなことを公言すれば離婚慰謝料とは別に名誉毀損の慰謝料も払わないといけないように思われます。

法律的には以上です。

憲法96条の改正の先に

憲法96条の改正の可否について、少し書かせていただきましたが、では、改正規定を変えたとして、その先、何を変えるのか。

憲法改正論者の多くは、戦争放棄、戦力不保持を定める9条を変えるべきだと考えているでしょう。これについては、人それぞれに多くの思いや考えがあると思いますが、私個人は、改正すべきだと考えているほうです。

日本の自衛隊は、たぶん世界中でも匹敵する軍隊がほとんどいないくらいの実力を持っています。そしてそれは、一国民として極めて頼もしいものと思っています。

それを、あれは「戦力」「軍事力」じゃない、「自衛力」であるから憲法9条には反しない、国際法上、戦力と自衛力の違いは云々…などとワケのわからない議論を並べないとその存在を説明できないというのであれば、それは憲法のほうがおかしいのでは、と思わざるを得ないからです。

 

あと、私がおかしいと思っているのは「上諭」(じょうゆ)です。

上諭というのは、日本国憲法の一番最初に「朕は…」で始まる一文が掲げられており、それを指します。

朕つまり昭和天皇は「帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し」この日本国憲法を公布する、と書いています(原文を見たい方は、六法全書かインターネット検索で読んでみてください)。

 

帝国憲法73条とは、明治憲法にあった、憲法改正のための規定で、現在の日本国憲法の96条にあたります(なお、明治憲法73条では、国民投票までは必要とされておらず、議会の3分の2以上の多数決で改正可能でした)。

つまり昭和天皇が、日本国憲法の冒頭で、この憲法は明治憲法73条の手続きに則って改正されたのだと宣言しているわけです。

そして、日本国憲法ができたことで、明治憲法は効力を失ったと解さざるをえません。明治憲法では主権者は天皇、日本国憲法では主権者は国民、とされていて、明らかに矛盾するので両立しえません。

 

ここで、当ブログの拙文を辛抱強くお読みいただいた方には、何かおかしいことに気づきませんでしょうか。

前々回に書いた、憲法96条の改正が不可能であるという論拠の一つとして「96条を変えようとすると、その瞬間に96条が消滅してしまい、新96条が存在する根拠が失われてしまう」という理屈を紹介しました。

しかし、日本国憲法そのものが、明治憲法73条に基づいて定められたと言っておきながら、その明治憲法を消滅させてしまっているわけです。同じ理屈でいくと、日本国憲法が存在する根拠自体、失われていることになるのです。

 

そのあたりはどう説明されているかというと、そこから先はもう、憲法の教科書みたいな話になってしまうので書きません。

このように、第二次大戦後のどさくさに慌てて作られただけあって、矛盾も見受けられるのです。それだけ最後に付け加えて、この話題を終わります。

憲法改正規定は改正できるのか 3(完)

少し間が空いてしまいましたが、憲法改正手続きを定めた憲法96条自体を改正することはできるのか、という話をしていて、前回、それを否定する立場を紹介しました。

改正後の規定(新96条)が、改正の根拠規定(現行の96条)を消滅させることは論理的矛盾で不可能である、というのが、否定説の論理です。

 

それに対して、改正を肯定する立場もあります。現行96条がなくなっても、そいつは俺たちの心の中に生きている、それでいいじゃねえか、という考え方です。

いま、ものすごくテキトーに理由づけをしましたが、もちろんきちんとした理論があります。いくつか紹介します。

 

① まずは憲法の条文解釈的な理由づけ。

憲法のどこを読んでも、96条に手を加えてはいけないなどとは書いていない。改正手続きを定めた規定が存在する以上、その規定自体(96条)が改正されうるのは、当然想定されているはずである。

② 次に、主権者の意思という観点から。

憲法は主権者である国民の意思に基づくというが、現代の主権者が憲法を改正したいと思っても、昔(憲法が制定された昭和20年)の主権者が定めた厳しい改正手続きに縛られるというのでは、却って主権者の意思が反映されていない。

③ それから、思想的な理由。

もそも日本国憲法は、第二次大戦後、連合国軍(特にアメリカ)が、日本が二度と強大な国にならないようにタガをはめたもので、日本に対する不信感、警戒感のために、改正手続きも極めて厳しいものとなっている。独立国になった以上は、これを変えるべきである。

 

さて、この問題については、極力、政治思想とかでなく法解釈的な立場から述べると、前々回書きました。もっとも、解釈上は、否定説・肯定説のどちらにもそれなりの論拠があるので、結局はそれぞれの論者の思想によって決めざるを得ないものなのかも知れません。

 

最後に私自身の考えを述べますと、弁護士としてはたぶん少数派だと思うのですが、改正してもいい(肯定説)という立場に傾いています。

理由はいろいろありますが、上記の3つに加えて、いま自民党が考えているのは「議員の3分の2の多数決」の部分を「過半数」に緩めるだけで、その後の国民投票までは廃止しないらしいからです。過半数を取った政党が改正を提案してきても、それがイヤなら国民投票でNOと言えばいいのです。

「過半数を取るだけで憲法を改悪できる」とか言ってる人は、その後の国民投票を信頼していない(つまり国民の目はフシアナであると言っている)わけです。

たしかに、3年半前の衆議院選挙のときのように、民主党みたいな政党が過半数を取ってしまい、国民の多くがそれを支持していた、という状況下では、変な憲法改正が実現してしまうという懸念はあります。しかしそれは次の選挙で変えていくしかない。

そうすることで、憲法、選挙、民主主義といったものが、本当に主権者の意思に基づくものになっていくように思えます。

 

憲法記念日までにこの話を書き終えてしまおうと思っていたので、とりあえず以上で終わりです。ヒマがあれば後日、なお蛇足的な話を書くかも知れません。

憲法改正規定は改正できるのか 2

前回の続き。

衆参両院で3分の2以上の多数を占めて、憲法96条の改正に取りかかろうというのが、いまの自民党の考えです。

しかしその一方、憲法96条は多数決でも変えられないんだ、という考えも根強くあります。たぶん、たいていの憲法学者はそう考えています。その理屈は、「憲法96条を根拠にして、その憲法96条を改正するというのは、論理矛盾であって不可能である」ということです。これをちょっと解説します。

 

日本は法治社会であり、法に違反すると何らかのペナルティが科されます。ではそもそも、それはなぜなのか、という根本的な問題にさかのぼってみます。

 

たとえばA君が他人を殴り、警察に逮捕されたとします。A君が警官に「オマエは何の根拠があってオレを捕まえたんだ!」と逆ギレしたとすると、警官はこう言うことができます。「刑法208条の暴行罪に該当する行為をしたから、刑事訴訟法199条の定める手続きに基づいて逮捕したのだ。何なら刑事訴訟法199条を見てみなさい」と。

A君がさらに、「法律に書いてあったからって、それで何でオレを逮捕できるんだ!」と食ってかかったらどうか。

警官はさらに言います。「日本国憲法59条の定める手続きに沿って刑事訴訟法が成立したからだ。何なら憲法59条を見てみなさい」と。

A君がさらに「憲法に基づいていればオレを逮捕できるっていう理由は何だ!」と言ったとします。これに対してはどう答えるべきか。

これが明治時代なら「それは憲法が、主権者である天皇陛下が神勅に基づいてお定めになったものだからだ」と答えることになるでしょう。

現代なら、「それは憲法が、キミ(A君)を含め、主権者である国民の意思によって成り立っているからだ」という答えになるでしょう(今の憲法は国民の意思に基づくものではなくてアメリカが戦後のどさくさに押し付けたものだ、という論理もあり、それはある程度事実だと思うのですが、その議論は今は置いておきます)。

 

このように、警察に限らず、国家の組織や権力は、すべて憲法に、究極的には主権者の意思に由来するものだから、その存在と行動が許される、ということになっています。

 

憲法の改正ということに関して、もう一つ例を挙げます。たとえば、戦争放棄と戦力不保持を定めた憲法9条が改正され、新9条に基づき国防軍が誕生したとします。

護憲論者であるBさんが、国防軍と新9条に対して、「軍隊などというけしからんものが、なぜ存在しているのだ」と食ってかかったら、こう答えることができるでしょう。

「憲法96条の定める手続きに沿って、きちんと新9条に改正されたからだ。何なら憲法96条を見てみなさい」と。

 

では最後に、憲法96条そのものを改正した、という例で考えてみます。新96条は、3分の2ではなく過半数で良いとか、国民投票は要らないとかいった内容にしたとします。

さっきのBさんが「憲法みたいに大切なものを、そんなに軽く変えることができる新96条はけしからん」と言ったとします。

新96条はどう答えるか。「憲法96条の定める手続きに沿って、きちんと新96条に改正されたのだ。何なら憲法96条を見てみなさ…あれっ?」となるはずです。

新96条が存在する根拠となる元の憲法96条は、改正されることによって消滅してしまっているからです。

 

改正規定である憲法96条を改正して新96条にしたとすると、その瞬間に、新96条の存在根拠がなくなってしまうことになる。だから多数決を取ってもそんな改正はできないのだというのが、改正否定派の理屈です。

ターミネーター2みたいな話で、憲法96条は最初から自らを破壊することができないものとしてプログラムされている、というわけです。

 

長くなりましたので、次回へ続く。

憲法改正規定は改正できるのか 1

自民党政権になって再び注目を浴びだした、憲法改正の問題について触れます。

憲法を論じるとなると、どうしても個々人のイデオロギーや政治論を反映しやすくなってしまうのですが、ここでは極力、法の規定の解説と、その解釈という観点から論じることとします。

 

いま安倍総理がしようとしているのは、憲法96条の改正です。

96条は、憲法の改正手続きについて定めたもので、憲法を改正しようと思ったら、衆参両院で、総全員の3分の2以上の多数決を取った上で、国民投票で過半数の賛成を得ないといけない、とあります。

これは、普通の法律を作ったり改正したりすることと比べると、相当高いハードルです。

 

これが普通の法律なら、過半数の賛成でいい。しかも、国会は議員の3分の1以上が出席すれば開催できる(定足数)。

つまり、衆議院は定数480ですから、3分の1(160)のさらに過半数で81。つまり81人の賛成があれば衆議院を通ることがありうるのです。

 

憲法改正の場合、定足数というものはなくて、「総議員」と条文にあるから、正味480の3分の2以上で、320人の賛成が絶対に必要となる。

いま、衆議院で与党となっている自民党の議席が295、その仲間の公明党が31で、合計326議席です。公明党が賛成すれば3分の2を超えますが、公明党はどうも憲法改正には消極的なようです。

そのこともあってか、維新の会の石原慎太郎が先日の代表質問で「いずれ公明党に足を引っ張られるぞ」と言い、安倍総理を苦笑させたという映像をご覧になった方も多いと思います。

その維新の会(54議席)と組んで3分の2をクリアしても、まだ参議院があります。

 

参議院は定数242で、3分の2以上となると162人の賛成が必要です。

現在、参議院では自民党83議席、公明党19議席で、合計102議席。維新の会(3議席だけ)を加えても到底、3分の2に及びません。蓮舫さんらがいる参院の民主党がまだ85議席とがんばっています。

この夏、参議院議員選挙があり、総数のうち半分が選挙を受けます(参議院は任期6年で、3年ごとに半分ずつ改選すると憲法に書いてあり、たぶん小学校の社会科でも習ったと思います)。民主党がずいぶん減るとは思うのですが、自民党とその他の改憲勢力を含めて3分の2に届かせるには、よほどの大勝が必要なのです。

安倍総理が、アベノミクスで株価か急上昇したのに浮かない顔をしているのは、お腹が痛いからではなく、自分自身と党に対して、常に引き締めを図っているからです。

 

そして、衆参両院で3分の2を取って憲法改正が可決されても、国民投票で過半数の得票を要します。国民投票などというのも、通常の法律を決める際には求められていません。

過去、憲法改正のための国民投票というのは行われたことがなく、その結果がどう出るかは、通常の選挙の票読みより難しいでしょう。

 

憲法を変えるというのは、それくらいに大変なことなのです。そういう大変な手続きを、憲法96条が求めているのです。ならば、その96条自体を変えてしまおう、というのが、いまの自民党の考え方なのです。

続く。

成年後見と選挙権 2(完)

前回の続き。

被後見人が選挙権を持たないとの公職選挙法の規定は、私も結論としては違憲無効で良いと考えており、今回の東京地裁判決が妥当と思います。

前回、指摘し忘れていましたが、問題の条文は公職選挙法11条1項で定められており、その1号に、被後見人が掲げられています。ちなみに、この条項には、他に選挙権が剥奪される人として、刑務所に入っている人とか、選挙違反の罪を犯した人などが掲げられています。ここだけ見ると、被後見人と犯罪者を同一に扱っているというわけです。

 

私自身の狭い経験ですが、私も弁護士ですので後見人をしたことも何度かあります。

あるケースでは、家裁で後見人に選任されるのに先立って、その被後見人(80歳程度の女性)と面談に行きました。確かに、細かい話は心もとないとはいえ、受け答えに大きな問題はありません。

親族の方が言うには「今日は若い男前の弁護士さんが家に来てくれるっていうんで、おばあちゃん、朝から楽しみにしてたんですよ。お化粧も濃いめにして」とのことでした。

この被後見人のおばあちゃんは、自分のおかれた状況(自分の判断能力が弱っていること)を把握しており、財産管理を弁護士に委ねるということも理解しています。若い男が来るから綺麗にしておこうという意識までお持ちです。私が期待に沿うほどの男前だったかどうかは知りませんが。

これくらいの理解力を持っている人であれば、選挙権を行使することに問題があるとは思えません。どの党が好きとか、どの候補者が男前だ、くらいの判断はできるでしょう。私自身も、そしておそらく多くの有権者も、その程度の判断で投票をするわけですから。

 

被後見人になる人の判断能力の程度もいろいろで、もっと重い障害や痴呆で、選挙や投票の意味すら理解しない人も中にはいるでしょう。その場合、その被後見人の選挙権を後見人が悪用して、1人で2票を投じてしまうという弊害も考えられる。

しかし、公職選挙法の問題は、それぞれの被後見人の能力を問題とせず、一律に選挙権を奪ってしまうというところにあります。

生じうる弊害は、選挙管理委員が監視するとか、選挙犯罪で摘発するといった方法で抑制すべきことです。もしその弊害が完全に除去しえないとして、少なくとも、被後見人から一律に選挙権を奪うことのほうが問題としては大きいと思います。

 

そういうことで、東京地裁は違憲判決を出しましたし、私もこの判断に賛成です。

国側はすでに控訴したようで、これには批判も向けられています。おそらく政府の考えは、裁判を続けておいて、その間に公職選挙法をきちんと改正しようということでしょう。

時間かせぎと言われるかも知れないですが、選挙の現場としては一地裁の判断に従って良いのかどうか混乱が生じかねないので、国会が正式な対応を法律で決めるということだと思います。

これは一票の格差のところでも少し書きましたが、今後、国会が裁判所の意をくんで、混乱が生じないよう法的な手当てを行なうということです。

 

この問題については以上です。引き続き、ブログテーマのリクエストをお待ちしております。

成年後見と選挙権 1

今回の記事は、大阪ミナミで小料理屋の若女将をされている島之内あけみさん(29歳、仮名)からのリクエストです。

「一票の格差」の問題を書いてきましたが、公職選挙法がらみでもう一つ、成年後見人がついた人は選挙権を失うとの規定が先月、東京地裁で、憲法違反で無効だとされました。この問題に触れてほしいとのことですので、解説します。なお、仮名だけじゃなくて小料理屋も若女将もウソなのですが、リクエストがあったのは本当です。

 

知的障害や、高齢や痴呆で判断力が低下している人について、その財産管理などを行なうのが成年後見人です。その人の親族や弁護士が、家庭裁判所の審査を受けた上で就任します。

この場合、成年後見人がついた人は、成年後見人と呼ばれ、財産管理権がなくなり、自分で契約などを結べなくなるほか、選挙権も失うと定められています。

 

成年被後見人とは、字のとおり、成年にして後見されている人のことです。

なお、これと対応して未成年被後見人というのもあり、これは知的能力とは関係なく親権者がいなくなった場合につきます。以下、長ったらしいので「成年」は省略しますが、被後見人と書いたら成年被後見人のことと思ってください。

ちなみに、比較的最近まで、被後見人は、禁治産者(きんちさんしゃ)と呼ばれていましたが、言葉の響きが悪いのか、平成11年に民法が改正され、呼び名が変わりました。

「治産」とは自分の財産を管理・処分することを意味するので、それが禁じられている人ということで言葉自体は間違っていないと思うのですが、たしかに「禁」という言葉がつくことで、法律家でない人が聞けば、何か悪いことをして財産を奪われた人、というイメージを持たれることもあったのかも知れません。

 

被後見人は財産管理権がなくなるというのは、悪い人に騙されて財産を奪われるのを防ぐためで、これは合理性があります。というより、後見制度はそもそも、そのようにして財産を失うことを防ぐために設けられた制度です。

たまに、後見人である親族や弁護士自身が、預かっている財産を横領するという事件がありますが、そこは家庭裁判所にきちっと監督してもらうことです。もちろん、そんなことをすれば横領罪で捕まりますし、弁護士の資格も剥奪です。

 

では、被後見人から選挙権まで奪うのはどうか。

選挙権を奪う趣旨は、おそらく、被後見人は知的能力が弱っているからどの候補者が良いか判断できないとか、後見人が被後見人の投票権を悪用しかねないとかいうことでしょう。

そしてもう一つ、禁治産者と呼ばれていたころの偏見もあったのではないかと想像します。

禁治産者という言葉は、明治29年にできた民法に定められました。公職選挙法は昭和25年、戦後の普通選挙制度の開始にあわせて作られたものですが、さすがに今ほどに人権意識も強くなく、禁治産者に対する無理解や偏見から、特に深く考えることもなく選挙権なしとしてしまったのではないでしょうか。

 

あれこれ書いているうちに長くなったので、この問題に対する私の考えは次回に書きます。

市立幼稚園の民営化に反対する

今回は完全に私ごとの話ですがご了承ください。

 

大阪市には「大阪市歌」というものがあり、長年、大阪市民をやってきた私はその存在すら知りませんでしたが、息子が地元の市立幼稚園に入園したとき、年中・年長の園児たちが入園式で歌っているのを聞いて初めて知りました。

どんな歌かというと、出だしは「高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙」(後略)と、かつて仁徳天皇がいつも上町台地の高津宮から大阪平野を眺めて、人々の家のかまどに煙が立っているか(つまり食糧が行きわたっているか)心配しておられたというエピソードにちなんだ、なかなか良い歌詞なのです。

息子は4月になったら、年中クラスの園児として新入園児を迎え、入園式でこの歌を歌わなければならないので、いま幼稚園で練習させられているらしく、家に帰ってきても断片的に歌っています。

しかし、大阪市は幼稚園を民営化して、その運営を民間の学校法人に委ねる方針のようなので、幼稚園でこの歌は歌われなくなるかも知れません。大阪市から切り捨てられようとしているのに熱心に市歌を覚えようとしている息子を見ると切なくなります。

 

そんな感傷はさておき、幼稚園の民営化の当否について少し書きます。

大阪市に限ったことではないですが、公費の負担を減らすことを目的とした公共機関の民営化は、各所で進められていることと思います。

民間にできることは民間でやってもらうと、大阪市の担当者なども言っているようですが、その理屈だと、民間でできない(またはさせるべきでない)ことと言えば、国防、警察、司法くらいでしょうから、大半の公的機関を消滅させるべきこととなります。

市役所や府庁も要らなくて、民間か、国の出先機関にやってもらえば良いことになりますが、しかしそれは地方分権の流れに反することでしょう。

 

大阪市の幼稚園に関しては、財源上の疑問があります。

とあるデータによると、大阪の市立幼稚園では、児童1人あたりに市が年間約57万円の予算をつけているそうです。私立の場合は、それが約85,000円で済む。大阪の市立幼稚園の児童は約5200人だから、全部を民営化すると、この差額に人数をかけて約25億円の予算を浮かせることができるそうです。

もっとも、幼稚園に予算をつけているのは市だけではありません。国や府も援助しています。国と府の援助は、市立だと年間わずか約500円ですが、私立だと約20万円です。私立でも親の払う保育料が高くなり過ぎないよう、国と府が大幅に負担しているのです。したがって、すべてを民営化すると、国と府の負担が10億円多くなります。

市は予算をカットできるが、国と府は負担が増える。大阪府の財政だって、この先わからないし、橋下府政でもっと悪化したとも一部報道で言われています。今後、府も予算をカットすると言い出すことは充分考えられる。

国と府が負担しきれなくなると、あとは、その年間20万円を親が払うか、学校法人に負担してもらうしかなくなります。幼稚園に子供を通わせられなくなる親も出てくるかも知れないし、また負担に耐え切れずに破綻する学校法人が出てくるかも知れない。

そんな不安を残すのですが、それでも、大阪では維新の会が勢力を保ってゆくでしょうから、公共機関の解体が今後も進んでいくでしょう。

ただ、自民党政権になって、児童教育を無償化するという話も出てきているようですが、国の予算でこれをやるというのであれば、わざわざ公立幼稚園を民営化させる予算上のメリットはなくなるので、それに期待をつなぎたいと思っています。

 

繰り返しますが、大阪市の考えは、市は負担したくないから国と府に依存するというものであって、地方分権に反することです。また市の予算と権限でもって子供を教育するということを放棄するものであって、仁徳天皇が聞いたらお怒りになることでしょう。

まとまらないままですが以上です。

高嶋政伸の離婚裁判についての点描 2

前回の続き、といいますか、離婚裁判についての一般的な話から始めます。

誰しもご存じだと思いますが、協議離婚や調停離婚が整わないときに、裁判所の判決で離婚をさせてもらうのが裁判離婚です。

つまり裁判離婚は、夫婦の一方が離婚したくないと言っても裁判所が離婚させるわけですから、婚姻が破綻しているのか、「婚姻を継続しがたい重大な事由」(民法760条)があるのか、慎重に判断されます。

 

ですので、単に夫婦の一方が別れたいと思うだけでは離婚はできないのですが、これに関して、私が同業の先輩から聞いていて、かつ私自身もその通りだなと思うことがあります。

それは、「夫は別れたいが、妻は別れたくないと思っている」場合と、「妻は別れたいが、夫は別れたくないと思っている」場合とでは、後者のほうが裁判離婚が認められやすい、ということです。

その理由は想像できます。夫は妻に捨てられても食っていけるし、それに外で愛人ができて妻を追い出したいと考えている場合もある。それに比べて、妻は夫に捨てられると食っていけないので、妻が別れたいというからには相当の事情があると見られがちである、ということだと思います。

もちろんその考え方は、女性の経済力の向上、男女平等意識の高まりを踏まえて、今後変わっていくでしょう。

 

もう一つの理由、これは、私が過去に見聞きした極めて狭い範囲でのお話しということでお聞きいただきたいと思いますが、それは、離婚裁判に際して、自分を客観的に見ることのできる男性が少ないということです。

具体的には、妻が「別れたい」と言っているのに対して、夫は「別れたくない、自分はまだ妻や子供をこんなに愛している、妻や子のためにこれまでこんなに努力してきた」と、そういう「自分の」ことばかりを強調しようとしがちです。

では奥さんがどうして、そんなあなたと別れたいと思ったのか理解できますか? 今後、奥さんとどうやって関係を修復していこうと考えているのですか?と私や裁判官が聞いても、あまりきちんとした答えがでてきません。

(ちなみに女性は、別れたい理由、別れたくない理由、別れるための条件、関係を修復する方法など、割と合理的に話す方が多いです)

自分の思いを強調すれば裁判官はわかってくれる、と信じているのかも知れませんが、それは明らかに逆効果です。自分の思いばかりを主張する夫に対して、裁判官は「思いこみの激しい人だ、その思いこみの激しさが、夫婦関係を破綻させたのだろう」と推測します。

 

さて、高嶋政伸と美元の話に戻ります。芸能ニュースを見て言ってるだけなので、間違っている可能性も多いにありますが、東京地裁が裁判離婚を認めたのは、一言でいえば、美元の思いこみの激しさだと推測しています。珍しく、というべきか、女性側の思いこみが激しかったケースです。

高嶋政伸が別れたいと言っているのに対して、美元は(たぶんマスコミで報道されることも計算しつくした上で)「今でも愛している」とか「法廷で会えてうれしかった」という、ときに奇矯とも思える発言を繰り返すばかりであった。

今後の関係の修復に向けた冷静で合理的な主張はなく、それどころか、夫婦ケンカのときの録音テープを証拠に持ち出したりして、二人の夫婦関係をどうしたいのか、最後までよくわからなかった。

そのあたりが、高嶋政伸勝訴の原因だったと、勝手に推測しているのですが、訴えの取下げ、協議離婚で一件落着したのは前回書いたとおりです。