DNA鑑定と父子の関係 2(完)

前回の続き。

自分の子供だと思っていたら、DNA鑑定の結果、実の子である確率が0%だと判明したら、親は法的には何ができるのか。説明の便宜上、引き続き、大沢樹生と喜多嶋舞、その息子を例にとって進めます。

考えられるのは、前回も少し書きましたが、大沢樹生が親子関係不存在の確認を求めて訴えることです。相手は息子で、未成年ですから親権者も相手にすることになります。今朝みた「おはよう朝日です」の芸能コーナーでは、今の親権者は喜多嶋舞の母のようなので、この人が相手となるわけです。

 

従来、親子関係不存在確認の訴えは、妻が子を出生したが、夫は戦争や海外赴任で全く性交渉がなかったような場合などに起こされてきました。科学の発達により、今回みたいに、DNA鑑定というものが、この訴えのきっかけになることが増えていくのかも知れません。

手続きとしては、まずは家庭裁判所で調停が開かれ、話合いの場が持たれますが、それで収まらなければ判決が下されることになります。

大沢樹生がもしこの訴えを起こした場合、DNA鑑定という、科学的にもおそらく承認されている方法で親子関係の存在確率は0%だと言われたのですから、訴えを認めて良さそうにも思います。

これが認められると、大沢樹生と息子の親子関係は、法律上、戸籍上も切断され、子供は親権者の戸籍に入ることになります。

 

ただ、一般論として、DNA鑑定が出たから親子関係不存在を直ちに認めてよいかというと、法律実務家(裁判官や私たち弁護士)と学者の中には、慎重論を持つ人も多いようです。

今回のケースは、大沢樹生は騙されていたわけであり、翻弄される子供もかわいそうだけど、親子関係の不存在を認めてやるべきだ、と感じる人が多いのではないかと思われます。

しかし、親子関係不存在の訴えは、こういったケースばかりではありません。

 

適切な例が思い浮かばないので池波正太郎の「真田太平記」を挙げてみますが、真田家の忍者の棟梁・壷谷又五郎は、ある女性と道ならぬ恋に落ちて、子供(佐平次)ができました。又五郎は、佐平次が闇の世界に生きる忍者として育つのを嫌い、真田家の侍・向井家に引き取ってもらいます。

その後、佐平次は向井家の侍として真田家に仕え、一方で又五郎は徳川家の忍者との暗闘の末、佐平次に自分が親であると告げないまま、討死を遂げます(うろ覚えですがだいたいそんな話です)。

佐平次は向井家の子として育ち、佐平次を引き取った侍も、実の父ではありませんが、佐平次に愛情を込めて育てたはずです。

そういう状況で、この親子に全く関係のない第三者がしゃしゃり出てきて、「佐平次は向井家の子供じゃないぞ、壷谷又五郎っていう後ろ暗い忍者の子供だ、何だったらDNA鑑定をして、佐平次を向井家から追い出してしまえ!」と訴えてきたとしたら、「科学的には親子じゃないから」と認めてしまってよいかというと、疑問を感じる方も多いでしょう。

 

そういうわけで、DNA鑑定を理由に親子関係不存在確認を認めて良いか否かについては議論があるところなのですが、DNAだけでは測れない親子の絆も世の中には存在しうる、ということだけ指摘して、この程度にとどめます。

DNA鑑定と父子の関係 1

芸能ニュースネタではありますが、ちょっと興味深い話。

大沢樹生と喜多嶋舞との間に出生したと思われた男子が、DNA鑑定の結果、実は大沢樹生の子ではなかったと判明したそうです。

 

喜多嶋舞はわかっていたのだろうし、それを隠していたのもどうかと思います。大沢樹生も、かわいそうな気がするけど、なぜ今になってDNA鑑定などして、その結果を公表したのか、よくわかりません。

もちろん、大沢樹生が、直ちに親子の縁を切って、だましていた喜多嶋舞に慰謝料を請求します、と言うのなら筋は通っているけど、父としての気持ちは急には変わらない、みたいな煮え切らないことを言っていて、それなら最初から鑑定などすべきでないと感じます。

 

この2人の関係は、ウィキペディア情報によると、平成8年にいわゆる「できちゃった結婚」をし、平成17年に離婚。その際、子供の親権は喜多嶋舞が取りましたが、平成19年には大沢樹生が親権者となったとのことです。

ちなみに、協議離婚の際、親権者は夫婦の協議で決まりますが、その後、親権者を変更することもできます。ただし、変更することについての家庭裁判所の許可が必要です(民法819条)。ですから許可を得た上での親権者の変更だったのでしょう。

 

その後、大沢樹生は、自分と子供のDNA鑑定をしたところ、DNAからして親子関係が存在する確率は0%との結果が出ました。

なぜ鑑定などしようと思ったのか、また、本当の父親は誰なのか、そのへんは私は興味はないので、芸能雑誌に譲るとして、法的なところを検討したいと思います。

 

DNA鑑定は、専門の業者に頼めばやってくれます。

私も、10年ほど前、ある男性依頼者からの相談で「うちの子は絶対に俺の子じゃない、嫁が浮気して生んだ子だ」というので、親子関係の不存在を確認するための調停を家庭裁判所に申し立て、その過程で専門業者に鑑定してもらったことがあります。鑑定費用に20~30万円かかったと記憶していますが、いまはもう少し安くなったのでしょうか。

その結果はといいますと、大沢樹生の一件とは逆で、「親子である確率は99.999%」という結果が出ました。

「100%じゃないんですか?」と鑑定業者の人に聞いたら、「父親(男性依頼者)と全く同じ型のDNAを持つ人が、世界のどこかに存在する可能性があるので、科学的には100%と言い切ることはできません。100%の鑑定結果を出そうと思ったら、世界中の男性すべてのDNAを調べる必要があります」と言われました。

その男性依頼者は、鑑定結果に納得したのか、調停を取り下げました。たぶん今は奥さんお子さんと仲良く暮らしているはずです。

 

大沢樹生の「0%」という結果は、「この父のDNA型からこの子のDNA型があらわれるはずがない」ということで、これはたぶん、科学的に言い切れることなのでしょう。

寄り道が多くて長くなってしまったので、次回に続く。

非嫡出子の相続分規定が改正されなかったらどうなるか

先日ここでも書いたとおり、非嫡出子の相続分を嫡出子の半分とする民法の規定が、最高裁で違憲とされました。

今国会のうちに、民法の改正が成立するようですが、ここに至るまでに、一部の政治家(主に自民党の保守系の人)からは、嫡出子と非嫡出子を同じに扱うことについて、根強い反対論があったようです。

この反対論に対して、新聞報道や、私の同業者の大多数は、違憲とされたんだから早く改正すべきだとして、反対する保守派を批判していました。

私は、非嫡出子の相続分は半分で良かったと考えているのは、すでに述べたとおりです。しかし、個々人の考え方や価値観はいろいろあろうが、違憲立法審査権を有する最高裁に違憲とされた以上は、速やかに改正するのが国会の職責であると思われます。

 

その話はさておき、ある法律が、最高裁において違憲と判断されたら、その法律はどうなるのかということについて、少し触れます。

結論としては、その法律は、そのまま残ります。法律を作ったり変えたりするのは国会のやることなので、いかに最高裁がこの法律は違憲だと言っても、自動的にその条文が廃止されるわけではない。これが三権分立ということです。

だからこそ、国会で民法を変えるか変えないかで混乱が生じたわけです。

 

今回は結果的に国会が改正に応じましたが、もし、応じないとどうなるのか。

実際、それが生じた例があります。

少し前に触れたとおり(こちら)、親を殺すと死刑または無期懲役という重罰になるという尊属殺人罪の規定(刑法200条)は、昭和48年に最高裁が違憲と判断したものの、長らく廃止されず、私が大学に入って初めて六法全書を買ったころ(平成2年)でも、その条文は存在していました。

その後、平成7年に、刑法を口語化することになり(それまでは漢字とカタカナまじりの文語文でした)、その際にあわせて、刑法200条が削除されました。

 

20年以上もの間、違憲とされた条文が残っていたのは、やはり、「親殺しの大罪を普通の殺人と同じに扱うのはけしからん」という保守派の政治家の考えによるものでしょう。

しかし、昭和48年の最高裁判決以降、親殺しの犯罪が起こっても、検察官は普通の殺人罪(刑法199条)を適用して起訴しました。

最高裁としては刑法200条は違憲無効と言っているわけですから、当然のことでもあります。こうして刑法200条は廃止されなくとも、死文化することとなりました。

 

今回の、非嫡出子の相続分は半分とする民法900条4号但書きが、もし廃止されていなかったとしても、同じことが起こったはずです。

最高裁はこれが違憲無効だと言っているので、非嫡出子は、相続分が半分か平等かで嫡出子と争いになった場合、裁判に持ち込めば良い。そうすれば平等の相続を命じる判決が出ることになるからです。

法律上の争いを最終的に裁ける存在は裁判所だけであり、裁判所の大ボスの最高裁が民法900条4号但書きは無効と言ってるわけですから、嫡出子が争ってもどうにもならないのです。

 

そういうわけで、もし民法900条4号但書きが廃止されなくても、死文化するだけだったと思うのですが、死文化した条文が六法全書に残り、立法と司法に齟齬が生じているという状態は望ましくないので、今回の法改正は、いかに保守派の政治家たちにとっても、やむをえないものだったと考えております。

「処分保留」とはどういう状態か 2

処分保留のことについて書こうとして、間が空いてしまいましたが、続き。

まずそもそも、起訴・不起訴も決まっておらず、したがって容疑が晴れたわけではない人をなぜ釈放するかというと、一つには、警察の留置場の収容能力の問題です。

もう一つは、警察の処理能力の問題で、逮捕できるのは最大72時間、その後、勾留という段階に切り替わると20日間という時間制限があり、その間に捜査をすべて終わらせるのは結構大変ということです。

警察署には、日々いろんな容疑者が逮捕されてくるので、すべての容疑者を身柄拘束すると、到底、警察官が処理できなくなるのです。だから、悪質性の低い容疑者に対しては、「追って沙汰があるまで待っておけ」ということで、釈放するのです。

 

では、どういう場合に釈放が認められるのか。

私も弁護士ですから刑事弁護を引き受けることがあり、逮捕後の容疑者が釈放されるかどうかの瀬戸際で弁護活動をしたことも再々あります。

結局は、「総合的に判断される」ということで、あれこれ解説しようとすると際限なくなるので、みの二男と前園の例で説明します。

 

みの二男は、最初、ある男性のカードでATMからお金を引き出そうとしたという窃盗未遂の容疑で逮捕され(72時間)、その後、勾留され(20日間)、さらに、その男性のカバンからカードを抜き取ったという窃盗の容疑で再逮捕されました。そのころになって、みの二男は自白しました。

検察は、さらに勾留する予定だったようですが、裁判官がこれを認めませんでした。

たちの悪いこととはいえ、幸いにも実害は生じていないし、自白して反省もしている。日本テレビという大企業の社員だし(その後で解雇されましたが)、ドラ息子とはいえ有名人の息子だから、身元はしっかりしているので、逃亡するおそれも低い。そう判断して裁判官は勾留を認めなかったのでしょう。

みのもんたの好き嫌いは別にして、弁護士としては、妥当な判断だったと思っています。

 

前園は、タクシー運転手への暴行罪の容疑で逮捕されました。

その後は、被害者のタクシー運転手と示談したから被害の回復はいちおうなされている。酔って記憶があいまいとは言いつつ、当初から事実は認めて反省もしている。有名人だし、やはり身元はしっかりしている。

前園はたしか、検察が勾留の手続きを取らずに、検察の判断で釈放されたと思われます。

 

こう見てくると、事実を否認すると勾留が長くなり、やったことを認めて反省すると早く出してもらえる、ということも言えそうです。そういう傾向があるのは事実です。

弁護士の立場からすると、本当に無実の人でも、釈放されたいばかりに「私がやりました」とウソの自白をしてしまうことがあり、これが冤罪を生む原因とも言われていますが、その問題は本稿の主旨とは異なるのでおいておきます。

 

前園も、みの二男も、起訴・不起訴は今後決まります。重大犯罪でもないので、起訴猶予で不起訴になる可能性も多分にあると思います。

不起訴とは「刑事裁判にかけない」というだけの話であり、2人のやった不祥事が消えるわけではありません。不起訴になったからといって、みのもんたがまた偉そうにしだしたら、皆さんテレビにツッコミを入れてください。

「処分保留」とはどういう状態か

サッカーはぜんぜん見ないのでよく知りませんが、前園というサッカー選手が、タクシー代の支払いを求めてきた運転手に殴る蹴るの暴行をした容疑で逮捕されました。

「酒に酔っていて覚えていない」と、ありがちな供述していたようですが、これはお酒と、酒飲みに対する冒涜といってよい発言です。

私だって、さんざん飲んで帰り道にどう帰ってきたか全く覚えていないほどに酔っぱらったことくらい、過去に何度かあります。翌日、店に迷惑かけてなかったかと心配になって電話やメールをしてみると、「いえ、きちんとお勘定もして、ご機嫌で帰られましたよ」と言われたりします。

これは私が品行方正というのではなく、多くの酒飲みの方も似たような経験をお持ちだと思います。酔っているときこそ、その人の普段の行動パターンがそのまま表れるのです。酔って暴力をふるうというのは、もともとその人に暴力的傾向があるものと考えざるを得ません。

 

この前園さん、処分保留で釈放されたことも、皆さん御存じのとおりです。

処分保留で釈放、といえば、みのもんたの息子もそうだし、少し以前なら公園で裸になったSMAPの草彅くんもそうです。

前置きが長くなりましたが、この、処分保留で釈放というのが、どういう状態であり、どういう意味を持つのかを、論じようとしております。

 

刑事事件の捜査の流れをごく簡単にいうと、まず、警察が容疑者を逮捕したり現場検証をしたりして、証拠を集めます。次に、検察官がその証拠を踏まえて、刑事裁判にかけて裁く必要があるかどうかを判断します。

 

検察官の判断には、大きく分けて、①起訴と②不起訴があります。

①証拠が揃っていて、かつ事件も重大なものであれば、起訴して刑事裁判にかかります。

近年だと、押尾学がこのルートをたどって、裁判で有罪判決を受けました。

②不起訴となる場合にもいろいろあって、これも大ざっぱにいうと、a 嫌疑(容疑)が不充分と判断される場合と、b 嫌疑は充分だけど起訴しない場合があります。

 

a 嫌疑不充分の場合、起訴しても無罪つまり検察側の敗北となるだけですから、当然、不起訴となります。

小沢一郎が政治資金規正法違反の容疑で取調べを受け、不起訴になったのがこのケースです(その後、検察審査会の議決により強制起訴され、結局はやはり無罪となりました)。

b 嫌疑充分で証拠もそろっており、裁判にかけたら有罪にできる場合でも、諸般の事情から起訴しない場合があります。これを起訴猶予といいます。初犯だとか、被害者と示談成立したとかいう場合など、検察官の温情で起訴しない場合です。

ずいぶん古い例ですが、志村けんが競馬のノミ行為(競馬法違反)で「8時だョ!全員集合」に出演できない時期がありましたが、最終的にはこの起訴猶予になったのではなかったかと思います。

 

以上で、検察官の最終的な処分の主だったものを一通り説明しました。

では、前園や、みのの息子の「処分保留」とはどういう状態かというと、まさに文字そのままで「検察官がまだ最終的な処分をしないでいる」ということです。だから、起訴か不起訴か、不起訴なら嫌疑不充分か起訴猶予か、というのは決まっていません。それはこれから決まります。

 

次回もう少し続く予定。

非嫡出子相続分差別に違憲判決 2(完)

前回の続き。

非嫡出子の相続分について定めた民法の規定を確認しますと、民法900条4号に、兄弟姉妹の相続分は同じ、と書いてあって、その但書きに「ただし、嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の二分の一とし(以下略)」とあります。

一方、憲法14条には、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地によって(中略)差別されない」とあります。

非嫡出子という社会的な身分や門地(生まれ)を理由に、相続分が半分とされているのだから、民法900条4号但書きは憲法14条違反だ、という理屈です。

たしかに条文の文言上はそう読めますし、多くの憲法学者は早くから、民法のこの規定を批判していました。しかし最高裁は長らくこの規定を合憲とし、一番最近では平成7年にも合憲判決を出しました。

 

その理由は、ごく単純にいえば、前回書いたとおりの話になります。

非嫡出子(典型的には愛人の隠し子)からすれば、相続分が半分とは不当だ、と思うでしょうし、一方、正妻と嫡出子からすれば、愛人の子などが出てきても1円もやりたくないと思う。民法の規定は、その間を取った、ということです。

私自身は、これはこれで合理的な仕組みだと思うので、違憲無効にする必要はないという考えでした。

 

これは、6年半ほど前に私がブログで書いたことですが(こちら)、当時、内閣府の世論調査で、非嫡出子の相続分は半分という民法の規定を変えるべきかどうかという質問に対して、「変えないほうがよい」との回答が41%で、「変えるべきだ」という24%を大きく上回ったそうです。

そして、ここ6、7年の間で、この問題に対する国民感情や世論が、そう大きく変わったとは感じません。非嫡出子の相続分は半分で充分だ、と率直に感じる人が今の日本社会に多くいるとしても(私もその一人なのですが)、それは決して、克服されるべき差別意識であるとも、前時代的な考え方であるとも思えません。

 

もちろん、最高裁は、世論調査だけで結論を決める場ではありませんが、それでも、法律の解釈にあたっては、国民感情とか社会の趨勢とかいったものが、それなりに重視されます。

そう考えると、平成7年に合憲判決が出された当時と、このたび違憲判決が出たこの平成25年とで、この問題をめぐる国民感情やその他の社会情勢が、判例を正反対にひっくり返さないといけないほどに変わったといえるのか、その点は正直なところ、少し疑問に感じるところです。

とはいえ、私は弁護士なので、相続問題にあたっては、最高裁の判例に沿ってやっていくことになります。今回の記事はあくまで私が最高裁判決に感じたことを書いたということで、この話を終わります。

非嫡出子相続分差別に違憲判決 1

私ごとながら、ここ1週間ほど、所用でハワイにおりました。

ハワイでも日本のニュースが見れるチャンネルがあり、この間、驚いたニュースといえば、東京五輪の開催決定と、もう一つは、最高裁が非嫡出子の相続分について新たな判断をしたことです。

この最高裁の判断、すでに報道によりご存じのことと思われ、今さらブログ記事にするのも時期を逸したように思いますが、少し触れてみます。

 

民法では、非嫡出子(父母が婚姻関係にない子)の相続分は、嫡出子の半分とすると規定されていたのですが、今回の最高裁の判断では、これが憲法の禁じる「差別」にあたるということで、無効となりました。

 

これをどう感じるかは、皆さんもご自身に置き換えて考えてみてください。

たとえば私には、妻と長男がおり、仮に私が3000万円の遺産を残して死ぬと、妻の相続分が2分の1、子供の相続分も2分の1だから、妻と長男が1500万円ずつ相続します。

もし、長男のほかに、妻との間に産まれた次男がいれば、子供は2分の1の相続分を人数に応じて頭割りするので、妻1500万、長男750万、次男750万円の相続となる。嫡出子同士の相続分は平等です。

 

もし私が、長男のほかに、ミナミのクラブのホステスを愛人にして、その愛人に隠し子を産ませたとします。私と愛人は結婚していないから、隠し子は非嫡出子です。嫡出子である長男に比べて、半分しか相続分がない。結果、妻1500万円、長男1000万円、隠し子500万円の相続分になります。

愛人とその子からすれば、どうして非嫡出子だというだけで差別されるんだ、と感じるでしょう。

一方、妻からすれば、私が死んだあとに、見知らぬホステスが子供を連れて相続分よこせと言ってきたら、1円でもやりたくない、と思うかも知れません(本人に確かめたわけではありません)。

 

愛人と子供を作るんなら、誰からも文句が出ないようにするのが男の甲斐性じゃねえか、と思う人もいるでしょうし、私もそう思います。しかし問題はそういう通俗的なことではなく、現に嫡出子と非嫡出子の間で相続問題が頻発しており、法律自体が両者の相続分の違いを正面から認めてしまっているのをどう考えるか、ということです。

憲法14条は法の下の平等を規定していますが、これまで最高裁は、「合理的な制度である」として合憲と判断してきました。この度の判決は、最高裁が自らの判例を変更した点でも画期的なものです。

次回、もう少し続く予定です。

やっぱり市立幼稚園の民営化に反対する 2

続き。

前回書いたとおりで、大阪市の各区長が市立幼稚園民営化への理解を求めて、各幼稚園を回っておりますものの、民営化を不安視する保護者側と、ご理解くださいと繰り返す大阪市側との相互理解に至る見込みは到底ありません。

しかし、これは言ってしまえば仕方のないことで、幼稚園民営化に限らず、国政・市政上の問題については、いかに説明や議論を尽くしたところで、万人が納得しうる回答に到達するのは不可能なのです。

 

たとえば、私は前回、長く残っているものにはそれだけで価値がある、だから大阪市の公立幼稚園は残すべきだ、と書きました。

しかし、橋下市長と各区長と、維新の会の面々からすれば、長く残っているものなど、官僚主義などの旧弊のカタマリであり、既得権益の巣窟であり、そんなものは徹底的に打破していかなければならないと考えているに違いありません。

両方の見解について、どっちが正しいとは言い切れません。前回書いたとおり、市立小学校の民間校長が早速失敗していることなどを見ると、私は私自身の価値観が正しいと信じますが、市長や維新の連中もまた、自分たちの価値観が正しいと信じています。そうなると、これは議論で解決する類の話ではなくなります。

 

日本や欧米などの先進国は、憲法によって各人の価値観や言論の自由を厚く保証しているので、いかなる価値観も一応は尊重されることになります。これが立憲主義、自由主義の考え方です。

その上で、価値観がぶつかったときには、議会の多数決で物事を決めることになります。それが民主主義です。

 

橋下市長と維新の会は、いま明らかに勢いを失っていますが、大阪での過去の選挙に限っていえば圧勝を続けています。橋下市長の失策、失言が続き、維新の会から離党者が出たとは言え、いまでも支持者はそこそこ多いでしょう。

幼稚園民営化の具体的プランは、区長の言うところによればこの8月には発表され、大阪市議会でそれに対する信が問われます。維新の会は当然、賛成に回りますし、いつも日和見の公明党も賛成に回れば、過半数を制して可決されます。

 

そうなったら私はどうするかと言われれば、憲法の下で民主主義により決めたのなら、もう仕方がないと思っています。

幼稚園がもし民営化によってガタガタになったとしても、自分の息子くらいは立派に育てる程度の自信はあります。そして息子が大きくなったら、幼稚園のころに混乱が生じるのを止めてあげれなかったことを詫びたいと思います。

そして、

「お前が幼稚園に行ってたころは、橋下とかいう市長と維新の会って政党がすごく人気があったんや。でもなあ、お父ちゃんは、あんなの最初から、うさん臭いと思って一票も入れたことはなかったぞ。口だけうまい連中にあんまり大きい権力を持たせたらアカンのや」

ということを、合わせて聞かせてやりたいと思っています。

 

もう一回だけ続きます。飽きてなかったらお付き合いください。

やっぱり市立幼稚園の民営化に反対する 1

最近、この話題が多くてすみません。特に興味のない方は読み飛ばしてください。

 

大阪市では今、市政はゴタゴタとしておりまして、府の水道事業との統合は否決、大阪市営地下鉄の民営化は継続審議、橋下市長の目論んでいた大阪都構想など最近話題にすらならない、という状況です。

それでも、市長は今もなお、大阪市立幼稚園・保育所の民営化は、意地にでもなっているのか進めようとしていて、公募で市長に選ばれた各区長が、幼稚園などを回って民営化に向けた説明会を開いています。

 

我が大阪市西区の高野区長は、仕事熱心で、橋下市長の号令のもと、任務を忠実に遂行しようとしているのは分かるのですが、説明会で言っていることはムチャクチャです(これは高野区長が不誠実なのではなく、橋下市長が何も考えてないためです)。それをいちいち挙げるとキリがないので、少しだけ紹介します。

 

区長が幼稚園に来て言うには、市立幼稚園を廃止するのは、財政難が主たる理由でなく、民間を活用することで幼児教育の底上げ、つまり全体のレベルアップをする、ということにあるのだそうです。

では、それは具体的にどのように行われるのですか、との問いに対しては、「幼児教育のカリキュラムを作成していく」とか「教育委員会に幼児教育のスペシャリストを招き、教育委員会が幼児教育に積極的に関わっていく」とか、官僚が頭の中だけで考えたみたいな答弁に留まります。

その程度の、「これから考えていきます」みたいなやり方で、幼稚園に限らずあらゆる公的制度を潰そうとしているのが、今の市長とその子飼いの区長たちです。

 

ところで先月、公募で大阪市立小学校の校長に選ばれた人が、3か月で辞めてしまったという一件がありました。公教育に民間の力を投入すればうまくいく、という市長の考えが、この一事をもってしても、誤りだったことが露呈したわけです。

しかも橋下市長はこのことについて釈明を求められて「自分に人事権はないから責任はない。教育委員会の責任だ」と言いました。このように、大阪の公教育は、何があっても責任を取らないトップにかき回されているのです。

 

区長は幼稚園でこうも言いました。「公立幼稚園を残したいというのであれば、公立を残すだけの積極的な理由は何か、公立でないとできないことは何か、それを聞かせてほしい」と。

 

私は、古いもの、長く続いているものというのは、長く残るだけの良さがあって続いているのであって、そのこと自体が貴いものだと考えています。

私がよく行く老舗のバー「サンボア」は創業以来95年、京都・大阪を中心にのれん分けしつつ続いています。もっと大きな話になると日本の天皇は2000年以上続いています。

大阪の市立幼稚園は、いまきちんとした資料が手元にないですが、園の数を徐々に増やしながら、130年以上続いているはずです。

 

しかし、市長や区長はそういったものに価値を見出さないようで、公的制度や施設は潰せば潰すほど良いと思っているのでしょう。さらに言えば橋下市長はその時々で最も大衆受けしそうなことを言う(その意味では姿勢は一貫している)ので、行政の継続性や安定性、それに市民が寄せる安心や信頼感というものに重きを置かないのです。

これまで長年続いてきたものを潰すと言ってる側が、潰すだけの積極的な理由を何も説明せずに、潰さず残しておいてほしいという人に対して「潰さない理由を説明しろ」と言っているわけですから、相当に乱暴と言いますか、本末転倒な議論のやり方です。

 

ゴタゴタと書きましたが、次回もう少し続くかも知れません。

市立幼稚園の民営化に反対する(続)

少し前に、大阪市の公立幼稚園民営化に関する話を書きました。私が幼稚園児の子を持つ親であるという理由でこの問題には興味を持っているのですが、それにとどまらない問題も含んでいると思うので、もう少しだけ書きます。

(前回の記事はこちら

前回も書きましたが、大阪市のホームページによりますと、公立幼稚園を民営化する理由は、①市の財源上の負担軽減化、②公立と私立の保育料の負担の平等、③民間でできることは民間でやるという理念、といったあたりです。

 

①については、前回触れました。公立幼稚園を全廃すると、市の予算が年間25億円浮くそうですが、国と大阪府の私学援助が増える(年間10億円)という問題があります。

国と府が私学援助をヤメます、と言うと、幼稚園が潰れるか、保護者が年間20万円程度を支払って支えるかしないといけなくなるのですが、大阪市が今後の国と府の負担について、確約を取るなど何らかの手当をした形跡はない。

そもそも、年間25億円というと、大阪市の年間予算(約2兆6600億円)の0.1パーセントです。0.1パーセントを浮かすために、公立幼稚園を全廃し、その教職員を全員クビにするという了見が、私には理解できません。

 

②の、公立と私立の負担の平等という点も、「平等」と言われると反対しにくい雰囲気になってしまいますが、多分にマヤカシが含まれています。

私立幼稚園に入学させる親は、公立に入れたかったけど抽選にもれてやむなく、という人もいるにはいると思いますが、積極的に私立を選ぶ人もいます。教育内容、ブランドイメージ、施設、制服、バス送迎などです。ちなみに私の亡き祖母も私立幼稚園に私を入れたがり、そのため私はバスに乗って私立幼稚園に通っていました。

「公平」を唱える大阪市(具体的には市長)が、保護者アンケートの統計を取って、実際に不公平感を持つ親がどの程度いるのか検証したのかというと、その形跡はありません。頭の中で考えただけの「公平」です。

 

③の、民間でできることは民間でという理念は、市長に限らずスローガンとして好きな人は多いですが、これも前回書いたとおりで、それを徹底するなら、警察庁と自衛隊と裁判所くらいを残しておいて、大阪府も大阪市もなくしてしまえばいいのです(当然、大阪都も要らない)。

おそらく多くの人は、それはさすがに極端だ、と思うでしょう。ですから問題は、官から民へという抽象的なスローガンで片付くことでなく、どの部分を「公」が担い、どこを「民」がやるか、そのベストの線引きはどこか、ということです。その検証作業もされたとは思えません。

そして、公立幼稚園を廃止するという、そこで線を引くならその積極的な理由づけは何なのか、という説明もされているとは思えない。

抽象的理念から、いきなり飛躍して具体的な結論を導いてしまうのは、市長の悪いクセですが、この問題に限らず、こういう議論の仕方には注意しなくてはいけません。

 

民間に任せれば多様なニーズを取り入れて幼稚園教育が充実する、という説明もされていますが、幼児教育という、一種の高度な専門性を要する領域に、「市民ニーズ」を取り入れるというのがそもそも私には理解できません。

また、ニーズというのであれば、私がそうであるように「子供は公教育で育てたい」というニーズも現にあるのであって、そのニーズに限っては無視してしまう理由もわかりません。

 

こんなよくわからない理由で公教育を解体させてしまっては、大阪市の将来に禍根を残すように思えます。この問題は現在進行形のことで、今後も現場リポート的に触れるかも知れませんが、興味のある方はお付き合いください。