司法試験問題の漏洩事件 感想その1

明治大学のロースクールの青柳教授という方が、学生に司法試験の問題と解答を事前に教えていた、という事件が報道されました。教授は大学を懲戒免職となり(だから報道では「元教授」と書かれている。さらに国家公務員法違反(守秘義務違反)で在宅起訴される見込みのようです(26日産経朝刊など)。
在宅起訴とは、逮捕されているわけではないけど起訴されて刑事裁判を受ける身になることで、要するに今後は「被告人」になる見通しということです。

この事件、報道を通じて全貌が知れるにつれ、元教授と女子学生の不適切な関係は…と下世話な想像も浮かびますが、それよりも、私や同業者が思うのは、漏洩するにしても何でこんなヘタなやり方をしたんだろう、ということです。

この事件に関連して報道されご存じの方も多いかと思いますが、司法試験の論文試験は、100点満点中で50点くらい取れれば合格するとされています。私が受験した旧司法試験と、現在のロースクール時代の新司法試験とは、多少違うかも知れませんが、憲法とか民法とかの各科目で、大きなミスをすることなく、100点中55点くらいを安定して取れれば、悠々合格できます。
試験問題は多くは事例問題なので、その事例で法律上の問題点になることを見抜いて、それに関係する判例とか学説に触れて、だから本件はこういう結論になる、ということが書ければよい。

もちろん、限られた時間の中でそれをやるのは実際には難しく、だから私も一度は論文試験に落ちています。
受かるくらいのレベルの人は、六法の各科目の一般的な教科書に載っていることはおよそ理解できていて、この部分を試験で聞かれたら、この判例や学説に立場にたって、こういう論理を展開する、ということがきちんと固まっています。
採点する試験委員の側も、そこができているかを見ます。試験委員は、学者や判事など、それぞれ一流の人が就きますから、答案を見れば、こいつはあの最高裁の判例を理解しているなとか、こいつは誰々教授のあの教科書の学説に沿って書いたなとか、こいつは勉強せずに思いつきで自説を書いたな、というのが即座にわかる。

青柳元教授は、教え子に、問題だけでなく、模範解答まで教えていたそうです。公に出版された教科書にはそこまで触れられていないのに、学生レベルで模範解答に近い答案が書けるということは、まず考えられない。
漏洩するなら、問題だけ教えておくとか、せいぜい、答案上で触れるべきポイントだけ示しておいて(それだけでも圧倒的なアドバンテージになる)、あとは自分の知識で答案を準備しときなさい、としておけば、バレなかったかも知れない。

女子学生の側も、法務省の調査に対して、(模範解答でなく)「ある程度の点を取れる解答を教えてもらったと思っていた」と答えたそうです(同日朝刊)。
もちろん漏洩は司法試験制度自体を揺るがしかねない不正行為で、これが判明したのは幸いで、厳しい処分が下されるのは当然ではあります。しかしそれにしても、漏洩する側もしてもらう側も、かなりずさんなやり方だったのだな、と思うのは、私だけではなく、多くの同業者の共通の感想でしょう。
(この話、もう少し続く予定)

ハワイ道中記2015 その5(完)

今回でいちおう道中記も締めくくりです。
ハワイに出かける前は、ちょっとでも話せるよう英語を勉強していこうと心がけるのですが、実際にはきちんと勉強しないまま、最後は「度胸で何とかなる」と思って出かけるのが、通年のことになっています。今年もそうです。勉強としてはせいぜい、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」を、英語音声、字幕なしで見直したくらいでした。

それでも今回は、極力、こちらから話しかけてみる、ということを心がけておりました。
行き帰りの飛行機の中では、息子と共に機体の先頭へ行き「Hello!Nice meet you」と言って操縦席に入っていきました(デルタ航空やハワイアン航空では、出発前のコックピットに入れてくれて、写真まで撮ってくれる。日本の航空会社はどうか知りません)。

で、帰りの飛行機の中で。
機内食の夕食が出てくる時間に息子は寝てしまっていて、食べそびれてしまいました。後から起きてきて「お腹が減った」というので、子供用の夕食メニューを残しておいてくれているだろうかと、クルーのところに行きました。機内には日本人のクルーもいたのですが、上記のとおり、極力英語で話しかける一貫として、西洋人の男性クルーに話しかけようとしました。
何と言ったらいいのかな、と一瞬思ったのですが、とっさに私の頭の中に、「Have some tea?」という台詞が浮かび上がりました。
これは「燃えよドラゴン」の冒頭で、ブルース・リーが少林寺にやってきたアメリカ人(諜報機関の役人で、ブルース・リーに潜入捜査を依頼しに来た)に対して言う台詞です。
私はそのクルーに「Have some meal, For my child? He awaked.」と言いました。
「私の子供に何か食事はありますか。彼は起きました」と言ったつもりです。クルーは、「Oh,OK!」と言って、おそらく取りおいてくれていた、子供用のメニューを出してくれました。

映画のおかげでとっさに台詞が出てきた、一瞬得意になりましたが、ちょっと考えてみればかなり間違っていると気付き、機内で一人恥じ入りました。
ブルース・リーが「Have some tea?」と言ったのは、客人に茶を勧めているのですから、訳すれば「お茶はいかがですか」になります。Haveという単語に引きずられて、meal(食事)はまだありますか?という意味で聞いたつもりが、実際には「私の子供に食事はいかがですか?」と聞いていたことになります。
しかもこの話を書こうと思っていま調べたら、awake(目覚める)の過去形はawakedではなくawokeでした。
かなり珍妙な英語を得意気な顔でクルーに話していたことになるのですが、クルーのほうでも他に意味の取りようもないし、理解してくれたのでしょう。

映画で英語を学ぶのも悪くないですが、きちんと系統だてた勉強ではないという限界か、似たような台詞があると意味は違うのにそれに飛びついてしまうことがある、というわけです。
食事を持ってきてもらう、という会話の目的はいちおう果たしたわけですが、来年はもっとスマートな会話ができるよう、この恥ずかしい経験を忘れず、一層精進しようと思いました。

そしてデルタ機が関西空港に無事着陸し、ハワイへの旅は終わりました。

ハワイ道中記2015 その2

続き。「日本改造計画」を書いた小沢一郎はその後、政界での影響力をすっかりなくしましたが、アメリカ流の規制緩和、自己責任、自由競争を重視するという考え方は、今でも日本の政策に反映され続けています。

私にとって身近なところでは「司法改革」がそれで、ちょうど私が弁護士になって以降、小泉内閣あたりで盛んに言われ始めたと記憶しています。
簡単に言うとこういうことです。
日本社会はこれまで、国民の経済活動に対し、官僚(公務員)が事前にいろんな規制をかけ指導してきた。それは望ましいことではないので、今後は事前の規制はどんどん緩和していく。もし何か問題が生じたら、その段階で裁判所が白黒つければ良い。だから今後は司法の役割が増加し、弁護士の数も大幅に増やさなければならない、と。

司法改革とその成果について語るのは本題でないので省きますが、結果として、現在、私が弁護士になった平成12年(2000年)に比べて、弁護士の数はずいぶん増えました。しかし、裁判の件数が増えたかというと、統計上、明らかに減少しているそうです。
「事前の規制はしない、何かあったら事後的に裁判で白黒つける」という社会には、明らかになっていないのです。

このことに絡んで最近の例を挙げると(ハワイの話とどんどん離れてますがすみません)、五輪エンブレムの問題があります。

ある日本のデザイナーが作ったエンブレムが、ベルギーのリエージュ劇場とかいうところのマークに似ていると言われ、そのベルギーのデザイナーが自国の裁判所にエンブレムの使用差止めを求めて提訴したそうです。
司法改革の考え方をここに押し広げると、事前のチェックはザルでも良い、誰かがイチャモンをつけてきたら、エンブレムを使ってよいかどうかは裁判所に白黒つけてもらったら良い、ということになりそうです。

ちなみにこの問題を裁判所が判断したらどうなるかというと、ベルギーの商標法は知りませんが、日本の裁判所はエンブレムの使用差止めなど認めないでしょう。
ものすごくざっくり説明しますと、リエージュ劇場のマークはそもそも、商標登録されているわけでもないそうです。知名度があるマークなら不正競争防止法違反なども成立しますが、あのマークに大して知名度があるわけでもない。
不正競争というのは、著明なブランドイメージを誰かがマネて、そのブランドイメージにただ乗りして商売しようとするときに生じます。リエージュ劇場と東京オリンピックは商売の内容が全く違うし、今回のエンブレムを見て、「リエージュ劇場のマークと似ている」という人はいるかも知れませんが、「ああ東京オリンピックはリエージュ劇場が主催しているのか、じゃあ信用できるから見に行こう」とまでいう人は皆無でしょう。その程度だと不正競争にあたらないのです。

だからこの件、事後的に裁判所で白黒つけるとしたら、何の問題もなかったはずです。
しかし実際には、日本の内部からも、事前のチェックはどうなってたんだ、日本の恥だ、などという声が多く聞かれました。そして最終的には、誰が判断したかは知りませんが、エンブレムの撤回に至ったのはご存じのとおりです。
かように日本人は、大多数の国民と、そしてオリンピック委員会あたりの偉い人も、事前規制を重視し、事後の裁判など望ましくないと考えるのであって、政府のかけ声だけでそこが変わるわけではないのです。

次回に続く。次回はもう少しハワイの話をおり交ぜます。

ハワイ道中記2015 その1

このところ、法律問題に関する記事をほとんど書いていないままですが、今年も、夏の家族とのハワイ旅行の道中記と、いろいろ感じたことなどを書こうとしております。

この3年ほど、8月下旬に1週間ほどの休みをいただいております。 出発日も昼すぎまで事務所で仕事を片付けていたのですが(フライトが夜の出発ため)、そのとき、ワイキキビーチが大雨の影響で下水が海に流れ込み遊泳禁止になった、というネットニュースに接しました。 幸先の悪い話だなと思って、出発しました。

しかし、到着初日のワイキキの海は「言われてみればちょっと濁ってるかな」という程度で、普通に人が泳いでいました。私と息子も海に入りました。 滞在2日目に気づいたのですが、やはりワイキキ当局は遊泳を規制していたようで、ホテルからビーチに向かう通用門に、英語と日本語でそういう注意書きが書かれていました。

もっとも、誰かがビーチに出動して遊泳をやめさせるようなこともありませんでした。 当局として一応規制はするけど、泳ぐかどうかは自己責任、海の様子を見て各自判断せよ、という、アメリカ的な考え方なのでしょう。この規制、その後どうなったか知りませんが、3日目には貼り紙がなくなっていました。

今回の旅行では現地で合流した懇意の方(日本人の知人)がいて、車でオアフ島の北のノースショアに連れていってもらいました。その海岸に、ジャンプ・ロックという有名な大岩があり、そこから海に飛び込む人を眺めました。 これ、間違えると死んでもおかしくない断崖絶壁なのですが、人がどんどん飛び込んでいました(ちなみに私たちはその日はドライブが主目的だったので、遠くで眺めただけです)。

これも現地の人は皆、自己責任ということで飛び込んでいるのでしょう。 日本の海だと、何か事故があるときっと、海を管理する都道府県の責任だ、ということになって、そうならないよう危ないところは柵が張られ立入禁止になるでしょう。

ここで私は、かつて小沢一郎が政治家として注目されていたころに書いた「日本改造計画」(講談社、平成5年)を思い出します。 この本の出だしは(私は読んでないのですが)、小沢一郎がアメリカでグランドキャニオンを見て、柵などの安全措置を一切していないことに感動した、日本ではこうはいかない、という話から始まるのだそうです。 そして小沢一郎は、日本社会においてももっと、規制緩和、自己責任、自由競争という考え方を押し広げていくべきだ、という論理を展開します。

最近、この本は小沢一郎が書いたのではなく、複数の学者(小泉内閣のとき大臣だった竹中平蔵とか、政府の諮問委員をやってた伊藤元重とか)がゴーストライターとして書いたことが明らかにされましたが、これらの学者はその後、政界や学界でも主流の地位を占め続けたので、「日本改造計画」に書かれたことはそのまま、近年の日本の政策に反映しているはずです。

…いつもハワイと話がずれていきますが、この夏ハワイで見た光景を踏まえて、そういった話を続けます。

久々の投稿です。

久々の投稿になります。

ブログのシステム上の不具合などのため、なかなか更新できない時期が続きまして、しばらくして復旧したものの、「何か思いついたらブログに書き留めておく」という習慣がいったん止まってしまうと、なかなか書き始めることもできず、また本業も幸い多忙でもあり、かなり放置してしまいました。

8月は、「夏期休廷」と言いまして、裁判所の裁判官が交代で休みを取るため、法廷があまり開かれません。そのため少し余裕が出てきまして、こうして記事を書いているところです。

今日は8月14日(金)で世間はお盆モードであり、事務所の電話もほとんど鳴りませんが、お盆期間中も土日を除いて事務所は開いております。

ご相談ご希望の方はお問合せください。…ただ今日はさすがに早じまいしたいので、できれば17日(月)以降でお願いします。

8月の最終週は、私(山内)が研修のためホノルルに行きます。研修の成果は、例年どおり、ここで記事にさせていただくつもりです。

また、少しずつ何か書いていきますので、たまに思い出したときにでも、のぞきに来てください。

では皆さま良い夏休みを。

ハワイにて思ったことなど 2014夏 その4

アメリカ流の合理的な会話というのは、用件を伝えるにはたいへん便利なものです。

話があちこち行って恐縮ですが、私が去年、ハワイアン航空の飛行機でハワイに行ったとき、シャンパンのお代わりを何度も頼んだら、最後には「もうない」と言われました。たぶん私が飲み過ぎたせいです。

今年はスコッチのハイボール(スコッチ・アンド・ソーダと言えば通じるようです)をよく飲んでいたのですが、去年のこともあってお代わりを頼むときに遠慮してしまい、「すみませんが、スコッチはまだありますか」というのは英語でどう言えばいいのだろうと考えてしまいました。

でも、キャビンアテンダントの人たちは多分そんなことを気にしていないので、単に「スコッチ・アンド・ソーダ プリーズ」と言えばよいのだろうと、途中から考えを切り替えて、何度も注文しました。幸い、品切れにはなりませんでした(ちなみに、スコッチの銘柄はデュワーズのようでした)。

 

日本人のこの、何を言うにしてもまず「すみませんが」と相手をおもんばかる心が、自分の思考や認識を相手に伝達するに際して、不必要なワンクッションを置いてしまうのです。そういう社会で育ってきたものだから、日本人は議論が下手なのだと思います。

もっとも、前回書いたとおりで、これはどちらが優れているというものではなく、その国の歴史や風土によって、あるべき会話の態度は異なってくる、というだけの話です。

 

ただ、議論を通じて学問的な探究を突き詰めていくという場面においては、アメリカ流の合理主義というものはきっと強いのだろうなと思います。

今回、青色発光ダイオードの研究でノーベル物理学賞を受賞した中村教授は、かつて勤めていた日本の会社(日亜化学)を提訴し、思っていたほどの和解金を獲得できないと知るや、会社や日本社会に対する文句をさんざん言って、アメリカに飛び出していきました。

(ちなみに私が司法修習生だった約15年前、社会見学で徳島の日亜化学本社に行き、そこの研究者だったころの中村氏の話を聞いたことがあり、また、その後の日亜化学との訴訟では、私の同期の弁護士も中村氏の代理人の一人をやってたりしたこともあって、この件は当時から興味を持っていました)

中村教授の、研究者としての能力はもちろん、何ごとにも臆せず世界に飛び出して自分の能力を世に問うという姿勢は、とても素晴らしいものであり、息子にもそこは見習ってほしいと思います。

しかし一方で、無名のサラリーマン研究者であった中村氏に青色発光ダイオード開発のために巨額の予算を投じたのは、間違いなく日亜化学であり、その恩を忘れて後ろ足で砂をかけて飛び出すようなことをする人間に、うちの息子はなってほしくないとも感じています。

 

夏の終わりにハワイで1週間ほど過ごし、またこのたびのノーベル賞の受賞の報に接して、アメリカ的なものの考え方に対する複雑な思いを抱きました。

次回、話をすべてまとめて完結する予定です。

音楽と嘘と法的責任 2(完)

前回は雑談ばかりだったので、今回は早速本題から入ります。

 

まず、佐村河内さんのCDを買ったという人が、「耳が聞こえない作曲家というから感動してCDを買ったのだ、ウソならカネ返せ」と言ったとしたら、認められるかどうか。

これはおそらく無理でしょう。CDの売買契約を取り消す理屈としては、詐欺(民法96条)が考えられますが、CD屋さんが意図的に客を欺いたわけではないから詐欺にあたらない。

(民法95条の錯誤も考えられますが、この場合は「動機の錯誤」にすぎない。長くなるので解説は省略)

 

それに、きっかけはどうあれ、今回の騒動のあと、CDは逆に売上げが伸びているみたいですし、CDで音楽を聴くにあたって、作者の耳が聞こえないなどというのは、あくまでサイドストーリーでしかない。

(前回紹介した、音楽好きのバーのマスターも、たいしたことない音楽だと思ってCDを捨ててしまったらしく、今になってそのことを悔やんでいるそうです)

 

では、佐村河内さんを招いてのイベントやコンサートが中止になった場合、イベントの主催者は、チケットの払戻しなど諸々の損害を、佐村河内さんに請求できるか。

これは認められる可能性が高いように思えます。

イベントに参加する客としては、やはり、佐村河内さんというすごい音楽家を見たいがためにお金を払うのです。その正体がペテン師だと知れば、そんなもの見にいきたくない。

この場合、作者の経歴は、サイドストーリーなどではなく、観客のニーズを呼び起こすメインストーリーとなっており、そこにウソがある以上、イベントも成り立たない。そんなウソをついたほうは、賠償を求められてもやむをえない、ということになると思われます。

 

それから、報道されているとおりで、耳が聞こえるのに聞こえないと言って障害年金を受け取った場合、身体障害者福祉法により懲役などの刑罰に処せられる可能性があります。

そこまで行くかというと、警察・検察は「佐村河内さんが障害者手帳を取得した当時、本当は耳が聞こえていた」ということを立証しなければならず、それはなかなか困難なように思えます。

 

さて、渦中の佐村河内さんは、「近いうちに公の場で謝罪します」というファクスを報道機関に寄こしたようですが、この人の口から本当のことが聞けるのはいつのことでしょうか。

ちなみに、前回書いた「ブルース・リーをノックアウトした男」ことジョー・ルイスは後日、「本当にブルース・リーをノックアウトしたんですか?」と聞かれ、こう答えたそうです。

「ブルース・リーは酒を飲めないけど、俺は軽く3杯はイケるぜ」と。つまり飲み比べならブルース・リーをノックアウトできるというわけで……よく袋叩きにされなかったものです。

もはやメディアから袋叩きの佐村河内さんですが、その肉声を待ちたいと思います。個人的にはそんなに憎めない人なので、ジョー・ルイスなみに開き直った言い訳を期待しています。

本に掲載されました(宣伝)

弁護士のブログにもいろいろありますが、いろんな法律問題を解説したあとに、「この問題でお悩みの方は当事務所へご相談ください!」みたいな感じで締めくくるようなのは、宣伝っぽいので好きになれませんし、私もそんな記事は書くまいと、常に心がけております。

 

そこまで言っておいて、今日はちょっと宣伝です。すみません。

先月、発刊されました「弁護士プロフェッショナル 暮らしとビジネスを守る法律ドクター」(産経新聞生活情報センター企画、ぎょうけい新聞社発行)という本に、当事務所と私・山内が掲載されています(後掲写真)。

この本は、どういう基準で選んだかは知りませんが全国19人の弁護士を紹介したものです。

 

掲載してもらっていながら、こんな本を読む人がいるのかな、と思っていたのですが、つい先日、本を見て相談に来ました、という方がお見えになったので、実際、書店で販売されて、手にとってくださる人もいるのでしょう。

私もかつて、「ぐるなび」などなかったころには、レストランガイドや、バーガイドを買って、夜な夜な飲み歩いていた時期もあったので、そういう感覚で買っていただいているのかも知れません。

 

なお、当事務所には、この本の在庫が多少ありますので、欲しい方はお越しいただければ差し上げます(書店で買っていただいたほうが、発行者側は喜ぶかも知れませんが)。

現在、amazonでも発売されています(こちら)。表紙の写真が見れます。

次は、「LEON」か「あまから手帖」に載りたいと思っています。


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NHK訴訟判決に関して取材を受けました。

NHKが受信料の支払いを求めて起こした裁判で、6月27日、横浜地裁相模原支部は、その支払いを命じる判決を出しました。

裁判所が判決を出したことによって、受信者とNHKの間に受信契約が成立する、という判断なのですが、その意味について書こうと思っていたら、「弁護士ドットコム」というサイトからの取材をいただきました。

当方は仕事の合間に適当に答えただけなのですが、編集の方がわかりやすく丁寧に表現してくださり、そちらを見てもらったほうが早いかと思うので、ここで改めてゴタゴタ書かずに、リンクを紹介させていただくに留めます。

本人が拒んでも「受信契約成立」 NHK訴訟判決はアリなのか?

(弁護士ドットコム側には無断リンクなので、支障ありましたらご連絡ください。)

 

そもそも、なぜテレビを自宅に置いているだけでNHKを受信するという契約を締結しないといけないのかというと、放送法という法律にそう定められているからで、そのことは1年半ほど前に、当ブログでも紹介させていただきました。

(上記の弁護士ドットコムの記事と内容は重なりますが、こちら

 

今回の判決は、放送法には「テレビを置いたらNHKと契約しなさい」と書いてあるけど、契約しなかったらどうなるの? という問題について、「裁判所がその人に代わって契約を結んだことにできる」、イコール、NHKは受信料を強制的に徴収できることになる、という司法判断を示したものです。

これには理不尽さを感じる方も多いと思います。

しかし、私は「弁護士ドットコム」ではあまり私見を言いませんでしたけど、放送法やNHKは必要であると考えています。過去のブログ記事のほうでは少し触れましたとおり、民放が無残なくらいにつまらないし、それを見るとやはり公共放送は必要だと思えるからです。

もちろん、それに対する異論が高まってくれば、国会を通じて法律を改正すればよい話で、そこは私たちに委ねられていると言えます。

体罰教師はどう裁かれたか 3(完)

生徒を叩いた教師に無罪の判決を下した昭和56年の東京高裁判決を、前回に引き続き、紹介します。判決文は、極めて詳細に論じているのですが、ごく概要のみ述べます。

判決は、学校教育法11条が禁じている体罰とは「懲戒権の行使として相当と認められる範囲を越えて有形力を行使して生徒の身体を侵害し、あるいは生徒に対して肉体的苦痛を与えることをいう」と定義します。

「有形力の行使」というと小難しいですが、物理的な力を加えること、つまり手を出すことと理解してください。

そうすると、東京高裁は、教師が生徒を懲戒するやり方として、「口頭で注意する=適法、体罰を行なう=違法」という2分類だけがあるのでなく、その間に「手は出るけど相当の範囲内=適法」という行為が存在すると考えているわけです。

 

もちろん、手は出さないに越したことはない、でも、生徒を励ますときなどに肩を叩くなどのスキンシップも一切できないというのもおかしいし、また、生徒をたしなめる際に口頭だけでは「感銘力」に欠けてしまうこともある(「感銘力」というのは判決文の表現そのものです。何だかそういうタイトルで本でも出せそうな言葉です)。

そういう理由で、教師には、一定限度で有形力を行使することを認めてやらなければ、「教育内容はいたずらに硬直化し、血の通わない形式的なものに堕して、実効的な生きた教育活動が阻害され、ないしは不可能になる虞れがある」と。このカッコ内は判決文そのものの引用でして、判決文には似つかわしくない、熱のこもったことを言っています。

そして、本件に関して言えば、生徒をたしなめる必要性や、暴行の程度が必ずしも強くないことなどから、相当の範囲内であって違法でない、と言ったわけです。

 

長々と解説してしまいましたが、結論自体は、多くの人にとって常識に沿った内容ではないでしょうか。体罰が禁止されると言っても、判例上は、手を出したら即処罰というわけでは決してないことを、知っておいていただければと思います。

 

補足ですが、この記事を書くついでに教育法関係の本を参照しているうちに、最高裁でも、民事事件ですが、一定範囲で手を出すことを適法と認めた判決を知りました。今回紹介した東京高裁以上のことは言っていないので、これ以上は触れませんが、日付だけ紹介しておきます。最高裁平成21年4月28日判決です。

あと、紹介してきた上記の東京高裁の事例ですが、これまで男性教師と書きましたが被告人は女性教師のようでしたので、訂正します。

柔道界なども体罰問題でゴタゴタしてきましたが、この問題についてはひとまず以上です。