NHK受信契約、最高裁の判断3(完)

強制わいせつ罪についての判例変更と、NHK受信契約についての最高裁の判決について触れたところでまたサボっていましたが、後者の判決についての私見を述べます。

当初から述べているとおり、放送法の定めるNHKの受信契約その他の制度について、私は特に反対ではありません。

契約自由の原則に対する例外にはあたるわけですが、そこは、最高裁が述べたとおり、公共放送と民放の2つの制度を作って多元的な放送をするということで、個人的には納得できる理由だと思います。

たとえば私は、テレビで民放の番組を全く見ない日は珍しくないですが、それでもNHKのニュースと天気予報を見ない日は滅多にないですし、また、見たいニュースがあって民放のチャンネルにすると、野球やサッカーの中継が延長されたりドラマの特別編とかが流れていたりで、ニュースが見れないことも多々あります。だから民放だけだと、相当不便だろうと感じます。

 

今回の判決を受けて、各新聞の社説の中で「公共放送としての役割をきちんと果たしているのか」と言った指摘も見られました。

個人的な印象でかなり乱暴にまとめますと、NHKの放送内容は、左翼からは、安倍政権なり政府のすることに追従ばかりしていると批判され、右翼からは、政府のやることを悪く言いすぎる、と批判されているように感じます。

左翼からも右翼からも批判されているのであれば、バランスが取れているのではないかと思ってしまいます。

いずれであれ、NHK受信料をどうしても払いたくなければ、自宅にテレビを置かなければよい。

いまはスマホでもNHKを受信できてしまうため、スマホの契約者に対してNHK受信料の支払を求める裁判も起こされていて、地裁レベルでは判断も分かれているようです。でも、スマホでも受信料を取られるというのが嫌であれば、いわゆるガラケーを使えばよいのだと思います。

 

NHKの放送内容の良し悪しとか、現行の受信料制度とか、人それぞれに意見があるのだろうとは思います。NHK側としては、今後いっそう、そういう意見に耳を傾けてもらいたい。

しかし、法律家としてシンプルに思うのは、放送法という法律に定められている以上は、それに従って、テレビを置いてあればNHKと契約を結んで受信料を払うのは当然の義務だ、ということです。

 

今回の裁判の当事者のことを言っているのでなく、一般論として聞いていただきたいのですが、NHKの放送内容がケシカランから受信料を払わない、とか言う人を少なからず見かけます。しかしこれは極めて身勝手で危険な考え方だと思います。自分の気に入らない法律は破って良いと言っているのと同じですから。

テレビは置いてあるけど受信料は払いたくない、という人がすべきことは、NHK受信料の不払いなどではなく、国会議員に働きかけるなどして法律改正に動くことです。もしそれが大多数の国民の支持を得られるのであれば、いずれ法律も変わるでしょう。

最高裁も、今回の判決の中で、日本国憲法のもとでどういう放送制度が望ましいかは、国会で検討して決められることであって、「立法裁量」が認められる、と指摘しています。

国会の立法裁量とは、どういう法律や制度を作るかは主権者たる国民が選んだ国会議員に委ねられることを意味します(その裏側の意味として、裁判所は、その立法が明らかに憲法違反でない限り尊重することも意味しています)。

放送制度は究極的には国民の意思に委ねられているということで、ざっくりしたまとめ方ですが、終わります。

NHK受信契約、最高裁の判断 2

最高裁は、放送法64条1項の規定は合憲、つまり有効であると判断しました。

では、NHKと視聴者の受信契約は何を根拠に成立したことになるのか。

契約する意思もないのに、テレビを買ってきて家に置いただけで契約成立するというのは、前回書いたとおり、法の大原則に違反します。

放送法の規定も、テレビを設置した者はNHKと受信契約を「締結しなければならない」と書いてあるだけです。では、締結しない人はどうなるのか。

このときに使えるのは、民放414条2項但書きの「裁判をもって債務者の意思表示に代えることができる」という規定です。

法律上、一定の意思表示をしないといけない立場にある人が、それをしない場合、その人を訴えて勝訴判決を取れば、その意思表示があったことにできる、という規定です。

放送法64条1項による限り、テレビを置いてある以上はNHKと受信契約をします、という意思表示をしないといけない、それをしない場合はNHKがその視聴者を訴えて勝訴すれば、契約を受諾する意思があったことになり、受信契約が成立する、ということです。

NHKは地裁・高裁での裁判のときから、この条文を盾に取りました。

では、その結果として、受信契約はいつ成立するのか。

普通に考えれば、判決が意思表示の代わりになるのだから、判決が出たとき(正確にはその判決が確定したとき)に契約が成立し、視聴者はそこから受信料を払うことになる、とも思えます。

ただ、そうすると、その視聴者は裁判で長々と争っている間、受信料を払わなくてよくなる。きちんと払っている人とか、払ってなかったけどNHKから催促の人が来たから払った、とかいう人と比べて、不公平になる、とも考えられます。

そこで、東京高裁は、平成25年、視聴者が拒否していても、NHKが契約締結を求める通知書を送ったら、その2週間後に契約が成立する、という判断を示しました。

このとき私が弁護士ドットコムから電話取材を受けて答えた内容が、現在も「ハフィントンポスト」のサイトで見れます。こちら。(現在はリンク切れになっているようです。令和2年追記)

ここで私は、通知が来てすぐ払った人と、何年がかりで裁判で争った人との不公平を解消したいのはわかる、でも、通知を送っただけで、意思表示がない(それに代わる判決もまだ出ていない)段階で契約が成立する法的根拠が不明である、という理論上の批判を行いました。

今回、最高裁の判事たちは、この私の批判を拳拳服膺し熟慮検討したと見え、以下のような判断を示しました。

まず、受信契約が成立するのは、NHKの勝訴判決が確定したときである。

では、視聴者がいつから受信料を払うかというと、それは「テレビを家に置いた時点」からである。最高裁はその理由として「それが公平だから」という程度にしか述べてませんが、放送法64条1項は「テレビを置いた時点で契約の意思表示をしないといけない」と読めるのが法的根拠ということになるでしょう。

論理性を確保しつつ、結論の不公平感をなくそうとした理論構成です。

その結果、今回NHKから提訴された多くの視聴者の中には、過去にさかのぼって10数年以上に遡って20万円程度の支払を命じられた人もいるようです。

これ、時効にはならないのか。最高裁はこの点も判断しています。

受信料は毎月発生するものだから、定期的に支払うべき債務の時効は5年である。その5年をいつから起算するかというと、それは、NHKの勝訴判決が確定したときからである。なぜなら時効というものは、それを請求できるのにしない状態になって初めて起算されるところ、判決前は受信契約が成立していないから請求できないからである、と。

つまり、裁判が終わるまで、NHK側の受信料の請求権は時効にかからない、ということで、そのため、やろうと思えば、何十年にも渡る受信料の請求ができるということになりそうです。

もっとも、NHK側としては、何十年にも渡ってテレビを設置していたことを、証拠に基づいて立証する必要があり、視聴者側が「ウチはこのテレビを3年前に買いました。それ以前は、テレビは置いてなかったですね」と言ってしまえば、あまりに過去の分の請求は実際には困難と思われます。

判決内容の解説は以上です。最後に裁判所HPから、判決文のPDFを貼っておきます。こちら

私自身は、最高裁判決は妥当と思っていますが、そのあたりの私見については、次回に述べます。

NHK受信契約、最高裁の判断 1

最高裁が、NHKとの受信契約の強制を定める放送法の規定は合憲である、との判決を出しました。これについて触れます。

放送法64条1項には「協会(日本放送協会=NHKのこと)の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」とあり、つまり、普通のテレビを家に置いたら、NHK放送を受信する契約をしなければならない、ということです。これが「憲法に違反しない」と判断されました。

 

さっそく脱線しますが、NHKが受信料を支払わない人を提訴し始めたころから、当ブログでは何度かこのことを取り上げていました。

約6年前のブログ記事では、上記の放送法64条の規定の特殊性について触れています。( 過去の記事 読み返さなくても、このあとお読みいただく上で不都合はありません)

それで、地裁・高裁の判決が出たころ、弁護士ドットコムから何度か電話取材をいただいてネット記事になり、その記事がヤフーニュースのトップの見出しになったことがありました。

そのためか、私がNHKを相手に裁判をやっていると思った方もいるらしく、一時は、電話やメールで「私の弁護もお願いします」的な連絡が何度かありました。

私自身は、当ブログでも申し上げましたが、この件については傍観者にすぎません。NHKはよく見ているほうだと思いますし、受信料くらいは払いますよ、という考えです。ただ、国会が定めた放送法の規定に対し、最高裁はどう言うかという、理論的な興味があって、この事件に触れてきました。

 

上記の放送法の規定の何が問題かというと、誰でも常識的にお分かりだと思いますが、テレビを部屋に置いた、イコールNHKと契約しないといけない、イコールNHKに受信料を払わないといけない、という点にあります。

多少、理論的に言いますと、法律の大原則に「契約自由の原則」という考え方がありまして、これは、我々個人は、誰とどんな契約をするかしないか自由に決めてよく、国家がこれに干渉してはならない、ということです。当たり前すぎて条文に書いていないのですが、自由主義・民主主義国家では異論なく認められています。

そして、契約とは何を持って成立するかというと、互いの当事者が「契約を申込みします」「はいお受けします」という意思表示を合致させることです。意思表示の合致がないと契約は成立しない、というのも、法律家が誰でも認める法律の大原則です。誰しも、要らないものを一方的に売りつけられることはないので、常識的にも当然のことです。

放送法の規定は、この契約自由の原則に反するものではないか。

たとえば「ウチはテレビはWOWOWしか見ないから、WOWOWとだけ契約します」と思ってる人でも「NHKとも契約しなさい」と強制される。しかも、テレビを買ってきて家に置いただけで、NHKと契約しますという意思表示をしなければならない、とされる。

 

NHKから受信料の支払を求められた被告(一般視聴者)側は、こんな規定は憲法違反だと言いました。最高裁の判決文によると、13条、21条、29条違反が争われたそうです。

憲法13条は幸福追求権と言われまして、まあこれは、何にでも使える条文です。

憲法21条は表現の自由で、表現することだけでなく、表現された情報を受けとる自由つまり知る権利も保障しています。

放送法が知る権利の侵害になっているかと言うと、視聴者側の主張内容は正直、よくわかっていないのですが、おそらく、NHKが嫌いで受信料も払いたくないが、放送法がある以上、払いたくないならテレビを家に置かないという選択肢しかなくなる、そうすると他の民放も受信できなくなって、民放の情報を得ることが阻害される、そういうことだと思います。

憲法29条は財産権で、受信料を強制的に支払わされるのは国民の財産権の侵害だ、ということです。

 

これらに対して最高裁は、合憲だ、と言ったわけですが、その判断の枠組みには、特段の目新しいものはありません。

放送法の規定は、公共放送(NHK)と民放の二種類の放送事業者を作って、多様な放送がされるようにしたものである。そして民放は事業者の自主経営に任せる一方、公共放送はその性格上、特定の個人や団体(つまりスポンサー)の影響を受けないようにするため、その財源を広く視聴者に負担してもらうことは、むしろ国民の知る権利を充足するものであって認められる。そういう理屈です。

一見、国民の権利が侵害されているようでも、その制度が必要なものであって合理性のある仕組であれば憲法には違反しない、というのは最高裁が古くから度々用いる論理ですが、ここでもその論法が用いられました。ある程度、予想された結論ではあります。

今回の判決は、この憲法論だけでなく、NHKと視聴者の間には、いつの時点で、何をもって受信契約が成立するのか、という問題にも回答を出したのですが、そのあたりの具体的な話は、次回にします。

強制わいせつ罪の判例変更について 3(完)

強制わいせつ罪の成立要件についての最高裁の判例が47年ごしで変更されたという話をしています。

我々弁護士は、法律の解釈については常々判例を参照して、これは適法だとか違法だとかいう判断をしています。ですので、最高裁の判例が度々変更されると、裁判所の判断を信用できなくなる。

なので、最高裁による判例変更はそうそう行われるものではありませんし、だからこそ冒頭に述べたように、法律関係者は判例変更があると、興奮すると言わないまでも、オーッ遂に変わったか、という気持ちになります。

 

で、今回の判例変更ですが、47年ごしで判断を改めたということは、最高裁はこれまで判断を誤っていたのか。

その点、最高裁は、ひとことで言うと「時代の変化だ」と指摘しています。最高裁の判決文は裁判所のホームページにも紹介されており、そのあたりを詳細ながらわかりやすい文章で書いていますので、興味あればご覧ください。(判決文のPDF

最高裁判所は、性的犯罪に関しては「社会の受け止め方を踏まえなければ」その処罰範囲を適切に決めることができない、と述べています。

そして、国内や諸外国における近年の性犯罪の厳罰化といった傾向も踏まえ、「被告人の性的意図」がどうであったかよりは、被害者がどの程度の性的被害を受けたかを重視すべきだ、と述べます。

(法学部生向け注: 故・団藤重光先生の「刑法綱要」などには、ドイツのメツガーが強制わいせつ罪を傾向犯に分類していることの影響で、日本の学説でも内心の性的意図が必要と解されている、との指摘があります。なお団藤先生自身は不要説に立っていました。今回の最高裁の判決文には、昭和45年当時の日本の学説に影響を与えていたドイツでも近時の法改正で構成要件が変更された、との指摘があります。)

 

私も、今回の最高裁の判断が妥当だと考えています。理由は、上記の最高裁の言うことももっともだと思いますし、何より、今回の事件で如実に表われたように、性的意図の有無が争点となった際に、被害者の女性(今回は女の子)から、男の陰部がどうだったかなどの事情聴取をしなければならないのが馬鹿げている。

 

昔から言われていた、性的意図がなくても強制わいせつ罪になるなら、医師が女性の体を診察するのも罪になるのか、という点については、客観的状況からして罪の成否は区別できると、一部の学説はかつてから指摘していました。

確かに、医師が病院で女性の体を診察する行為と、女の子に自分の陰茎をなめさせる行為は、傍から見ても全然性質の違うことで、それで罪の成否を判断できそうです。

最初に紹介した、報復のために女性を脅して衣服を脱がせる行為も、今の解釈だと、強制わいせつ罪になるのでしょう。女性にその着衣を脱がせるなど、その女性にとって性的羞恥心を感じるのは明らかですし、脱がせる犯人のほうも、仮にスケベ心がなかったとしても、その女性は恥ずかしがっているだろうな、ということぐらいはわかる。それをもって、強制わいせつ罪で処罰するには充分と思われます。

そういうことで、長々書いてきましたが、今回の判例変更についての解説は以上です。

また何か、興奮するような話題があれば記事にしたいと思います。

強制わいせつ罪の判例変更について 2

前回の続き。強制わいせつ罪の判例が変更された事案を紹介します。

事件は平成27年1月、甲府市内の被告人Cの自宅で起こります。以下、事件の内容を伝えるために多少は生々しい記述をせざるを得ませんが、事件の状況は基本的に判決文から引用しております。

被告人Cは、自宅内で、当時7歳の女の子Dを全裸にして、自分の陰茎を触らせ、なめさせて射精するなどの行為をし、またC自身も女の子Dの陰部を触るなどして、その様子を自分のスマートフォンで撮影しました。そしてその画像を知人に送信しました。

この行為は、児童ポルノ処罰法で処罰されますが(本題でないから詳細は省略)、同時に、強制わいせつ罪にあたるかどうかが問題になりました。

この被告人Cがなぜこんなことしたかというと、その弁解によれば、生活費に困って知人からお金を借りようしたら、お金を貸す条件として、児童ポルノの映像を送ってくれたらお金を貸す、と言われたからだそうです(被告人Cと女の子D、そしてCと知人の関係は、判決文からはよくわかりません)。

 

私が読んだのは1審から最高裁までの判決文だけなので、その他の状況は想像で書くのですが、この被告人Cは、容疑者として逮捕された当初「お金が目的でやった。自分のスケベ心のために女の子にあんなことをさせたんじゃない」と弁解したかと思います。

弁護士も、前回紹介した昭和45年の最高裁判決がある以上、性的意図はなく金銭目的だから強制わいせつ罪は成立しないと主張したでしょう。刑事弁護人は容疑者・被告人の利益のために行動するのが職責ですから、これは当然です。

これを受けて、捜査担当の警察官や検察官は、Cが性的意図のもとに犯行に及んだことの証拠をつかもうとしたはずです。

1審・神戸地裁の判決文によると、検察官が女の子Dから事情聴取して作ったという調書の中に、Dが被告人Cの陰茎を洗っているとき、陰茎が「だんだん上を向いてきた」という記載があるようです。

つまり、Cが性的に興奮して勃起したということを、被害者の女の子D(事情聴取の時点では8歳になっていました)から検察官が聞き取った、これがCに性的意図があったことの証拠だ、というわけです。

おそらく裁判官は、この調書を見て、顔をしかめたのではないかと想像します。性的意図を認定するためには、8歳の女の子からそんな供述を取らないといけのか、と。

 

そして、神戸地裁は平成28年3月、以下のように判断します。

女の子Dの供述調書は、検察官の誘導に沿って作成された可能性があり、そのまま信用することはできない。そうすると、被告人Cには性的意図があったと認めることはできない。

しかし、と神戸地裁の判決文は続きます。

強制わいせつ罪の成立に性的意図は必要ではない。客観的に見てわいせつな行為が行われ、被告人にも自分の行為を認識できている以上は、性的意図がなくても、強制わいせつは成立するのだ、と。

つまり、はたから見てわいせつな行為、相手に性的羞恥心を起こさせるに足るような行為をし、被告人においてもそういう行為をしていると理解している以上、その行為が、金銭目的であれ性的意図に基づくものであれ、罪になるということです。

そして被告人に3年6月の実刑判決を下します。

最高裁の判例はこの時点で「性的意図必要説」に立っていますから、神戸地裁の判断は最高裁判例から逸脱しています。最高裁判例と異なる地裁・高裁の判断は通常、あとで覆されますし、そんな判決を出す判事は「最高裁判例に従わないヤツ」として上から睨まれるはずですから、裁判官もハラを決めて思い切った判断をしたのでしょう。

 

弁護側は当然、判例違反だとして控訴します。

すると大阪高裁は、平成28年10月、1審判決を支持して被告人の控訴を棄却するとし、判決文の中で、昭和45年の最高裁判決をそのまま維持するのは相当でない、と明言しました。大阪高裁も、最高裁判例に従わない、としたわけです。

弁護側は、さらに最高裁に上告します。そしてこの度の最高裁判決(平成29年11月29日)です。

最高裁は1審・2審判決を支持し、強制わいせつ罪の成立に性的意図が必要としたかつての昭和45年の最高裁判決を変更すると、自ら明らかにしました。

今になって判例が変更された理由については、最高裁判決の中に詳細に説明されていますが、そのあたりは次回に書きます。

強制わいせつ罪の判例変更について 1

強制わいせつ罪の成否に関して、最高裁の判例が変更されました。

「世の中、興奮することはいっぱいあるけど、一番興奮するのは最高裁での判例変更だな」と、皆さんの周りに弁護士とか法律関係者がいたら言ってみてください。きっとサンドウィッチマンの漫才みたいに「間違いないね」という回答が返ってきます。

私も、この判例変更に興奮して、というわけではありませんが、さぼっていたブログを1年ぶりに書こうとしています。

強制わいせつ罪は、刑法176条に規定があり、他人にわいせつな行為をしたら6月以上10年以下の懲役、とされています。なお、平成16年の改正前は、6月以上「7年以下」の懲役とされていましたが、近時の性犯罪の厳罰化の潮流の中で、刑の上限が重くなりました。

わいせつな行為の定義は、今回の本題ではないので省きますが、典型的には、痴漢など、女性の体を無理やり触る行為がこれにあたると、常識的にご理解ください。

今回、問題になったのは、強制わいせつ罪の成立要件として、犯人の内心に「わいせつな意図」、言い換えると「自分の性欲を満足させようとする意図」、さらに平たく言うと「スケベ心」が必要であるか否か、という点です。以下、スケベ心と書くのも何なので、用語の統一上、最近の判例に沿って「性的意図」と書きます。

従来の最高裁判例は、性的意図を必要とするという見解に立っており、学説上もそれが通説的なものとされていました。

その理由は、わいせつ行為にあたるかどうかは、外部的な行為からは判別しえない、ということで、たとえば、性的意図がなくても有罪になるとしたら、医師が女性の患者を診察するため裸にして体を見たり触ったりする行為が犯罪になってしまう、ということなどが言われていました。

こういう見解のもとに、最高裁にて強制わいせつ罪にあたらないとされた、有名なケースがあります。

事件は、昭和42年1月のある夜、釧路市内の被告人A(男性)のアパートの部屋で起こります。Aはこの日、被害者となった女性B(当時23歳)を部屋に呼びつけました。

Aには内縁の妻がいましたが、女性Bがこの内妻を東京に逃がす手配をした、と疑って、女性Bを問い詰めようとしたのです。

被告人AはBに対し「よくも俺を騙したな。(中略)硫酸もある。お前の顔に硫酸をかければ醜くなる」(1審の判決文より抜粋)などと言い、2時間に渡って脅しました。さらにBに対し「5分間、裸で立っておれ」と指示し、恐怖のためそれに従い裸になったBの写真を撮影しました。

なお、このとき部屋の中には、被告人の内妻もおり、当の内妻が暴力団員に電話をかけるなどして、Bを脅迫することに加担しており、内妻と女性Bの関係はよくわからないのですが、判決文にはこれ以上のことが出ていません。

被告人Aは、この事案で、性的意図があってBを裸にしたわけではない、Bの裸が見たかったのではなくて、内妻を逃がす手引きをしたことに対する報復のために、辱めてやろうとしたんだ、と主張しました。確かに、被告人AはBの体には一貫して全く触れていないし、内妻が同じ部屋に居て見ているから、変な気を起こすことも困難だったでしょう。

1審・釧路地裁、2審・札幌高裁は、被告人を強制わいせつ罪で有罪とします(懲役1年の実刑)。

しかし最高裁は、昭和45年(1970年)1月29日の判決で、強制わいせつ罪の成立には犯人の内心に性的意図を要し、本件ではそれがあったかどうかわからないと述べ、有罪判決を破棄した上で札幌高裁に差し戻して審理のやり直しを命じました。

その後、札幌高裁でどう裁かれたのか、手元の資料には出ていないのですが、強制わいせつ罪は不成立となったはずです。

もっとも、全くの無罪でなく、強いて衣服を脱がせる行為は強要罪にあたるので、これで処罰されたと想像しますが、強要罪だと「3年以下の懲役」(刑法223条)ですから、上限がずいぶん軽くなり、懲役期間も短くされた可能性はあります。

なお、最高裁の判決は、5人の裁判官のうち、評決は3対2に分かれました。2人の裁判官は性的意図などなくても強制わいせつ罪で処罰してよい、と考えたのです。

この評決が分かれた判決でも、判事の多数決で決まった以上、最高裁の判例として、その後長らく生き続けることになります。

そして、今回、この判例が47年の時を経て変更されたわけです。では今回はどんな事案であったか。その点は次回に続く。