司法試験問題の漏洩事件 感想その3(完)

話が長くなってきましたが、今回で終わりにします。
これまでの話を要約しますと、司法試験に早く受かる受験生は、教科書に書かれてあるような基礎的な知識を大切にし、それをきっちり習得した上で、試験本番では、基礎的な知識(前回の記事の①の部分)と、問題に応じてそれを応用した自分なりの答え(前回の②の部分)をきちっと書ける人だ、ということになります。
反面、なかなか受からない人は、教科書をきちんと押さえずに、受験予備校の模擬試験の模範答案を集めに回っている人です。自分の拠って立つ基礎的知識がないため、基本的知識(①の部分)すら、きちんと書けないのです。

今回の漏洩問題を起こした女子学生がどういう方で、これまでどんな勉強をしてきたのか、全く知りません。知らないままに失礼を承知で私の勝手な感想を書いていますが、私が思ったのは、この女子学生が、基本的な知識を大事にするという勉強よりも、模範答案をありがたがるタイプの勉強をしていたのだろうな、ということです。
もちろん、模範答案といっても、司法試験予備校で配られているような、司法試験合格者が片手間のアルバイトで書いたものではなく、司法試験の出題者本人が作ったものなのだから、重みは全然違って、女子学生がこれにすがってしまった気持ちはわからなくはない。

しかし、教科書をしっかり読みこんできた受験生であれば、その教授から模範答案を見せてもらったとしても、「ここからここまでは教科書に載ってる話だから、そのまま書いても問題ない。その先は、どの教科書にも載ってない話だから、そのまま書いたらバレてしまうだろう。その部分は自分なりの表現に置き換えて答案を作らないといけない」ということが、即座にわかったはずなのです。
まっとうな勉強をしてこなかったから、その区別がつかず、ありがたい模範答案そのままを解答してしまった。

問題の女子学生には、今後5年間、司法試験を受験できないという処分が下されたそうですが、その程度のことすら気づけなかったような勉強方法を取っている以上、これから5年勉強して次の機会を待っても、たぶん合格しないでしょう。

法科大学院(ロースクール)は、司法試験受験生が、大学の法学部でなく予備校に頼りがちになっている状況を改善し、大学でまっとうな教育を行なうという理念のもとに出発しました。
今回の一件で、法科大学院の教育すべてが間違っていた、とまで言うつもりはありません。しかし、少なくとも、法科大学院においても、必ずしもまっとうな教育が行われていなかったことが明らかになりましたし、法科大学院においても、基礎を大切にせず模範答案をありがたがるような、昔ふうのダメなタイプの受験生が残っていたことが明らかになりました。

結局、単純に言いますと、一発試験であった旧司法試験時代と、現在の法科大学院時代とで、制度は違えど、きちんと勉強する受験生は勉強するし、そうでない受験生はいろいろ抜け道を考えては自滅していくのだろう、ということです。そして法科大学院制度はその点を改善できていない、というのが私の感想です。

司法試験問題の漏洩事件 感想その2

司法試験の漏洩問題について、自分自身の受験時代を思い出しつつ、続き。
私は24歳のころから2年ほど、司法試験予備校に通いつつ受験勉強をしていましたが、早く受かる人は、月並みながら基本を大切にする人です。
より具体的には、自分の教科書を大切に読み込んで理解し、予備校での模擬試験に参加したら、必ず自分の教科書に戻って、その教科書の考え方に沿って、その問題を復習するような人が受かります。

予備校に長年いるのに合格しない人の典型として、たとえば、予備校を渡り歩いて模擬試験の「模範答案」を集めまわって、教科書をおろそかにして模範答案ばかり眺めていたり、「ここの予備校よりあそこの予備校の模範答案のほうが理由づけが詳しい」と論評したりする人がいます。そういうことを何年もやっているので、模範答案を集めたバインダーが、年々分厚くなっていくのです。

何でもブルース・リーを引き合いにだして恐縮ですが、ブルース・リーの著書に出てくる言葉として「日々の増加でなく、日々の減少である。すなわち、要らないものを叩き捨てることである」というのがあります。
武術の極意に達するための練習のあり方を言っているのです。ブルース・リーは、中国拳法を手始めに、東西の格闘技を広く学んで、その上で、難解な型を捨てていき、実戦向けのシンプルな技を抽出して、自分なりの武術の体系を作っていきました。

早く受かる受験生の勉強方法も、これと似ています。
たとえば、まずA教授の教科書をしっかり読んで、重要な最高裁判例と、通説的見解のA説を理解する。次に、有力説のB教授の教科書や、反対説のC教授の教科書も読んでみて、A説、B説、C説も理解する。
その上で、自分はやっぱりA説の立場に立って答案を書いて乗り切ろうと決める。いろんな学説を広く理解するけど、学者になるわけではないので、深入りせずにシンプルにA説に戻ってくるわけです。
本番の直前に見直すのは、そのA説の教科書か、そのエッセンスを自分でまとめたノート1冊で充分で、それ以上に資料が分厚くなることはない。

試験の本番では、教科書そのままの問題は決して出ないので、学んできたA説の理論をしっかり書いて、その上で、問題の事例にあてはめるとどういう結論になるかを、その場で考えて書く。
そして、試験委員は、①A説の論理がきちんと書けているかどうかということと、②そのA説を事例にあてはめて自分で考えた答えを出せているかを見ます。

①の部分は、A教授の教科書を読んだ受験生であれば、誰でもほぼ同じことを書きます。A教授の教科書という、いわば模範解答があるので、むしろその通りにきちんと書けていないとおかしい。

②の部分は、各受験生がその場で考えて書くことなので、書く内容にはバラつきが出るはずです。もしこの部分で一言一句同じことを書いている受験生が複数いて、受験のときに座席が近い者同士だとすると、カンニングが疑われます。
また、この部分の模範解答は一切公開されていないはずなので、試験委員だけが持っているはずの模範解答と同じことを書いてしまうと、「事前に模範解答をカンニングした」としか考えられない、ということになる。

前回も書いたとおり、問題の受験生はそういう次第で、バレるべくしてバレたわけです。
もう一度だけ続く。

司法試験問題の漏洩事件 感想その1

明治大学のロースクールの青柳教授という方が、学生に司法試験の問題と解答を事前に教えていた、という事件が報道されました。教授は大学を懲戒免職となり(だから報道では「元教授」と書かれている。さらに国家公務員法違反(守秘義務違反)で在宅起訴される見込みのようです(26日産経朝刊など)。
在宅起訴とは、逮捕されているわけではないけど起訴されて刑事裁判を受ける身になることで、要するに今後は「被告人」になる見通しということです。

この事件、報道を通じて全貌が知れるにつれ、元教授と女子学生の不適切な関係は…と下世話な想像も浮かびますが、それよりも、私や同業者が思うのは、漏洩するにしても何でこんなヘタなやり方をしたんだろう、ということです。

この事件に関連して報道されご存じの方も多いかと思いますが、司法試験の論文試験は、100点満点中で50点くらい取れれば合格するとされています。私が受験した旧司法試験と、現在のロースクール時代の新司法試験とは、多少違うかも知れませんが、憲法とか民法とかの各科目で、大きなミスをすることなく、100点中55点くらいを安定して取れれば、悠々合格できます。
試験問題は多くは事例問題なので、その事例で法律上の問題点になることを見抜いて、それに関係する判例とか学説に触れて、だから本件はこういう結論になる、ということが書ければよい。

もちろん、限られた時間の中でそれをやるのは実際には難しく、だから私も一度は論文試験に落ちています。
受かるくらいのレベルの人は、六法の各科目の一般的な教科書に載っていることはおよそ理解できていて、この部分を試験で聞かれたら、この判例や学説に立場にたって、こういう論理を展開する、ということがきちんと固まっています。
採点する試験委員の側も、そこができているかを見ます。試験委員は、学者や判事など、それぞれ一流の人が就きますから、答案を見れば、こいつはあの最高裁の判例を理解しているなとか、こいつは誰々教授のあの教科書の学説に沿って書いたなとか、こいつは勉強せずに思いつきで自説を書いたな、というのが即座にわかる。

青柳元教授は、教え子に、問題だけでなく、模範解答まで教えていたそうです。公に出版された教科書にはそこまで触れられていないのに、学生レベルで模範解答に近い答案が書けるということは、まず考えられない。
漏洩するなら、問題だけ教えておくとか、せいぜい、答案上で触れるべきポイントだけ示しておいて(それだけでも圧倒的なアドバンテージになる)、あとは自分の知識で答案を準備しときなさい、としておけば、バレなかったかも知れない。

女子学生の側も、法務省の調査に対して、(模範解答でなく)「ある程度の点を取れる解答を教えてもらったと思っていた」と答えたそうです(同日朝刊)。
もちろん漏洩は司法試験制度自体を揺るがしかねない不正行為で、これが判明したのは幸いで、厳しい処分が下されるのは当然ではあります。しかしそれにしても、漏洩する側もしてもらう側も、かなりずさんなやり方だったのだな、と思うのは、私だけではなく、多くの同業者の共通の感想でしょう。
(この話、もう少し続く予定)

ハワイ道中記2015 その5(完)

今回でいちおう道中記も締めくくりです。
ハワイに出かける前は、ちょっとでも話せるよう英語を勉強していこうと心がけるのですが、実際にはきちんと勉強しないまま、最後は「度胸で何とかなる」と思って出かけるのが、通年のことになっています。今年もそうです。勉強としてはせいぜい、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」を、英語音声、字幕なしで見直したくらいでした。

それでも今回は、極力、こちらから話しかけてみる、ということを心がけておりました。
行き帰りの飛行機の中では、息子と共に機体の先頭へ行き「Hello!Nice meet you」と言って操縦席に入っていきました(デルタ航空やハワイアン航空では、出発前のコックピットに入れてくれて、写真まで撮ってくれる。日本の航空会社はどうか知りません)。

で、帰りの飛行機の中で。
機内食の夕食が出てくる時間に息子は寝てしまっていて、食べそびれてしまいました。後から起きてきて「お腹が減った」というので、子供用の夕食メニューを残しておいてくれているだろうかと、クルーのところに行きました。機内には日本人のクルーもいたのですが、上記のとおり、極力英語で話しかける一貫として、西洋人の男性クルーに話しかけようとしました。
何と言ったらいいのかな、と一瞬思ったのですが、とっさに私の頭の中に、「Have some tea?」という台詞が浮かび上がりました。
これは「燃えよドラゴン」の冒頭で、ブルース・リーが少林寺にやってきたアメリカ人(諜報機関の役人で、ブルース・リーに潜入捜査を依頼しに来た)に対して言う台詞です。
私はそのクルーに「Have some meal, For my child? He awaked.」と言いました。
「私の子供に何か食事はありますか。彼は起きました」と言ったつもりです。クルーは、「Oh,OK!」と言って、おそらく取りおいてくれていた、子供用のメニューを出してくれました。

映画のおかげでとっさに台詞が出てきた、一瞬得意になりましたが、ちょっと考えてみればかなり間違っていると気付き、機内で一人恥じ入りました。
ブルース・リーが「Have some tea?」と言ったのは、客人に茶を勧めているのですから、訳すれば「お茶はいかがですか」になります。Haveという単語に引きずられて、meal(食事)はまだありますか?という意味で聞いたつもりが、実際には「私の子供に食事はいかがですか?」と聞いていたことになります。
しかもこの話を書こうと思っていま調べたら、awake(目覚める)の過去形はawakedではなくawokeでした。
かなり珍妙な英語を得意気な顔でクルーに話していたことになるのですが、クルーのほうでも他に意味の取りようもないし、理解してくれたのでしょう。

映画で英語を学ぶのも悪くないですが、きちんと系統だてた勉強ではないという限界か、似たような台詞があると意味は違うのにそれに飛びついてしまうことがある、というわけです。
食事を持ってきてもらう、という会話の目的はいちおう果たしたわけですが、来年はもっとスマートな会話ができるよう、この恥ずかしい経験を忘れず、一層精進しようと思いました。

そしてデルタ機が関西空港に無事着陸し、ハワイへの旅は終わりました。

ハワイ道中記2015 その4

ハワイ観光の話に戻します。
前回の旅程一覧には書いていませんでしたが、4日目、自動車でノースショアへ向かう途中に、パールハーバー記念館に行きました。ご存じの真珠湾と、その周りに真珠湾攻撃に関する博物館があります。
日本人にとっては、やや複雑な思いを禁じ得ない場所であり、アメリカ人にからまれるんじゃないかと一抹の不安はありました。
アメリカ人にもし「卑劣なジャップ!」とか言われたら、こちらも「ユー デストロイド キングカメハメハ」…お前らだってカメハメハ大王を滅ぼしたんじゃないか、と言ってやるつもりでした。

さて、身構えつつ行ってみたパールハーバー記念館は、実際には、からまれることもなく過ごしました。
私たちはお金を払って見に来ている客なので、当然といえば当然なのかも知れませんが、係員(白人もいれば現地人っぽい人もいる)は皆、親切丁寧でした。係員だけでなく、見物客も総じて親切で、私の息子が展示物を見たり触れたりしやすいように譲ってくれたり、私がトイレで手拭き用の紙の引っ張り出し方が分からずマゴマゴしていると「ヘイ!」と教えてくれたりしました。

展示されている潜水艦の内部の見学もしました。入口で係員が「ココデ写真トルヨ~」と日本語で言いました。
音声案内のヘッドフォン(数か国語のものが用意されてあり、もちろん日本語もある)をつけて艦内に進むと、音声案内がヘッドフォンから流れてきます。
音声ではまず「1940年12月7日は、アメリカ史上、最も不名誉な日である…」とアナウンスが流れてきます。その後は、潜水艦の各所でどんな作業や暮らしが行われていたか、またどのように魚雷を撃つのかなど、淡々と説明が続きます。

甲板に上がると、係員らしい白人の年配女性がおり、その人が、分かりやすくいうと大阪のおばちゃん的なオーラを出していて、いろいろ説明してくれました(残念ながらほとんど理解できず)。「ピクチャー!」とか言うのでカメラを渡すと、私たち家族の写真を撮ってくれました。1枚撮ってもらって「サンキュー!」というと、「ここも」「ここも」と指差すので、必ずしも広くない甲板上の5か所ほどで撮影してもらいました。

良い天気で、甲板から見る真珠湾は穏やかでした。
真珠湾攻撃の日はアメリカ史で最も不名誉な日であるというのが、アメリカ人の大多数の考えであるかどうかは知りません。しかし、思えば、あのころは日米が憎みあって戦争しながら、終戦後は同盟国の関係になったわけです。
第二次大戦後も、東南アジアや中東では戦争が絶えず、社会主義・共産主義を目指した国々は貧困やら内乱でバタバタと倒れていった。その中で日本とアメリカは、大きな混乱もなく、価値観の転換を迫られることもなく、例外的な繁栄を保ってきました。
その事実をどう表現してよいか、一言では片付けられませんが、私はこの、大阪のおばちゃんオーラの係員に写真を撮ってもらいながら、菊池寛ふうに言えば「恩讐の彼方に」、ニーチェふうに言えば「善悪の彼岸」という言葉を思い浮かべていました。

小1の息子はまだ理解できないと思うので、ただ「昔、日本人がここに爆弾を落としにきた。アメリカ人は、この潜水艦から、魚雷で日本の船を撃った」と、事実だけを伝えておきました。将来、歴史の勉強をしたときに、何か思い出すことがあるのかないのか、それはわかりません。

ハワイ道中記2015 その3

日本人はかように、事前の規制を重んじる、という話をしておりました。
事前の規制や決まりがあれば、日本人はその範囲で安心して行動でき(そのため自己責任で判断するとか、自由競争とかいう観念が育ちにくい)、何か問題が起こると、そのときに白黒つければ良いとは考えずに、事前に何をやってたんだ、という話になって結局「自粛」に至る。日本社会で良く見る話です。

もっとも私は、これを悪いことだとは思っていないし、規制緩和・自己責任・自由競争を徹底するのが正しいとも思っていません。同じような話を何度もしましたが、これは国民性の問題であって、どっちが望ましいとかいう話ではありません。
大昔から、狭い国土で台風や地震や津波に脅かされながら、みんなで協力して農作業に従事してきた日本人は、その狭い社会の中の人々が気持ちよく働けるように、調和を重んじ、何ごとにも遠慮(事前規制)をし、何かするにしても事前の根回しが必須とされた。
アメリカ人は、イギリスから飛び出して、アメリカやハワイを開拓し(そして原住民を大量虐殺し)、自分の住むところをどんどん拡大していった。根回しや遠慮や全体の調和という考え方自体を持たなかったのでしょう。

今回のハワイで、遊泳規制が出ているのにビーチで泳ぐ人たち、一歩間違えると死んでしまうような大岩からどんどん飛び込む人たち、そしてそれらを取り締まろうともしない当局、そういうのを見て、改めてそんなことを感じました。
日本は今後も、小沢一郎の「日本改造計画」(のゴーストライターの学者)が目指したような社会にはならないだろうし、司法改革などというものも失敗に終わるだろうと思います。

さて、全然ハワイの話でなくなってきたので、タイトルに「道中記」とあるとおり、道中のことをざっと書きます。

1日目。昼ころ、ホノルル空港からシェラトンホテルに到着。空港でJTBの人に「今日は晴れて良かったですね、昨日までバケツをひっくりかえしたような雨でした」と言われる。チェックイン後、遊泳規制に気づかず息子とビーチで泳ぐ。夜、一人でホテルのバー「ラムファイア」へ。

2日目。遊泳規制の貼り紙に気づくも、昨日より泳ぎに来ている人は増えていたので、同じように泳ぐ。今年もオプションのクルーズで船に乗る。そのゲストになぜか「ジバニャン」(の着ぐるみ)が来て、一緒に撮影できるイベントあり。アメリカ人の商魂たくましいと思う。

3日目。ロイヤルハワイアンホテルの「マイタイバー」へ。アラモアナセンターなどで買い物。

4日目。懇意の知人と合流し、車でノースショアなどへドライブに。ジャンプ・ロックから飛び込む人たちを眺める。名物のフリフリチキンとシュリンプを食べる。

5日目。ホテルのプールとビーチで終日遊泳。

6日目。帰国日。ハリケーンが迫っているらしく、その影響か分からないけど帰りの飛行機(デルタ航空)のアトランタからの到着が遅れ、空港で4時間半ほど足止めされる。ラウンジでウイスキーを何度もお代わりしたので女性係員に顔を覚えられたか、お代わりのたびに「まだ飲むの?」という顔で「Oh!」と言われる。その後、機中泊の上、無事帰国。

書いてみると、典型的な日本人のハワイ旅行という感じで、特に変わったことはしていないのですが、またそんな中から感じたことなど、もうしばらく続きます。

ハワイ道中記2015 その2

続き。「日本改造計画」を書いた小沢一郎はその後、政界での影響力をすっかりなくしましたが、アメリカ流の規制緩和、自己責任、自由競争を重視するという考え方は、今でも日本の政策に反映され続けています。

私にとって身近なところでは「司法改革」がそれで、ちょうど私が弁護士になって以降、小泉内閣あたりで盛んに言われ始めたと記憶しています。
簡単に言うとこういうことです。
日本社会はこれまで、国民の経済活動に対し、官僚(公務員)が事前にいろんな規制をかけ指導してきた。それは望ましいことではないので、今後は事前の規制はどんどん緩和していく。もし何か問題が生じたら、その段階で裁判所が白黒つければ良い。だから今後は司法の役割が増加し、弁護士の数も大幅に増やさなければならない、と。

司法改革とその成果について語るのは本題でないので省きますが、結果として、現在、私が弁護士になった平成12年(2000年)に比べて、弁護士の数はずいぶん増えました。しかし、裁判の件数が増えたかというと、統計上、明らかに減少しているそうです。
「事前の規制はしない、何かあったら事後的に裁判で白黒つける」という社会には、明らかになっていないのです。

このことに絡んで最近の例を挙げると(ハワイの話とどんどん離れてますがすみません)、五輪エンブレムの問題があります。

ある日本のデザイナーが作ったエンブレムが、ベルギーのリエージュ劇場とかいうところのマークに似ていると言われ、そのベルギーのデザイナーが自国の裁判所にエンブレムの使用差止めを求めて提訴したそうです。
司法改革の考え方をここに押し広げると、事前のチェックはザルでも良い、誰かがイチャモンをつけてきたら、エンブレムを使ってよいかどうかは裁判所に白黒つけてもらったら良い、ということになりそうです。

ちなみにこの問題を裁判所が判断したらどうなるかというと、ベルギーの商標法は知りませんが、日本の裁判所はエンブレムの使用差止めなど認めないでしょう。
ものすごくざっくり説明しますと、リエージュ劇場のマークはそもそも、商標登録されているわけでもないそうです。知名度があるマークなら不正競争防止法違反なども成立しますが、あのマークに大して知名度があるわけでもない。
不正競争というのは、著明なブランドイメージを誰かがマネて、そのブランドイメージにただ乗りして商売しようとするときに生じます。リエージュ劇場と東京オリンピックは商売の内容が全く違うし、今回のエンブレムを見て、「リエージュ劇場のマークと似ている」という人はいるかも知れませんが、「ああ東京オリンピックはリエージュ劇場が主催しているのか、じゃあ信用できるから見に行こう」とまでいう人は皆無でしょう。その程度だと不正競争にあたらないのです。

だからこの件、事後的に裁判所で白黒つけるとしたら、何の問題もなかったはずです。
しかし実際には、日本の内部からも、事前のチェックはどうなってたんだ、日本の恥だ、などという声が多く聞かれました。そして最終的には、誰が判断したかは知りませんが、エンブレムの撤回に至ったのはご存じのとおりです。
かように日本人は、大多数の国民と、そしてオリンピック委員会あたりの偉い人も、事前規制を重視し、事後の裁判など望ましくないと考えるのであって、政府のかけ声だけでそこが変わるわけではないのです。

次回に続く。次回はもう少しハワイの話をおり交ぜます。

ハワイ道中記2015 その1

このところ、法律問題に関する記事をほとんど書いていないままですが、今年も、夏の家族とのハワイ旅行の道中記と、いろいろ感じたことなどを書こうとしております。

この3年ほど、8月下旬に1週間ほどの休みをいただいております。 出発日も昼すぎまで事務所で仕事を片付けていたのですが(フライトが夜の出発ため)、そのとき、ワイキキビーチが大雨の影響で下水が海に流れ込み遊泳禁止になった、というネットニュースに接しました。 幸先の悪い話だなと思って、出発しました。

しかし、到着初日のワイキキの海は「言われてみればちょっと濁ってるかな」という程度で、普通に人が泳いでいました。私と息子も海に入りました。 滞在2日目に気づいたのですが、やはりワイキキ当局は遊泳を規制していたようで、ホテルからビーチに向かう通用門に、英語と日本語でそういう注意書きが書かれていました。

もっとも、誰かがビーチに出動して遊泳をやめさせるようなこともありませんでした。 当局として一応規制はするけど、泳ぐかどうかは自己責任、海の様子を見て各自判断せよ、という、アメリカ的な考え方なのでしょう。この規制、その後どうなったか知りませんが、3日目には貼り紙がなくなっていました。

今回の旅行では現地で合流した懇意の方(日本人の知人)がいて、車でオアフ島の北のノースショアに連れていってもらいました。その海岸に、ジャンプ・ロックという有名な大岩があり、そこから海に飛び込む人を眺めました。 これ、間違えると死んでもおかしくない断崖絶壁なのですが、人がどんどん飛び込んでいました(ちなみに私たちはその日はドライブが主目的だったので、遠くで眺めただけです)。

これも現地の人は皆、自己責任ということで飛び込んでいるのでしょう。 日本の海だと、何か事故があるときっと、海を管理する都道府県の責任だ、ということになって、そうならないよう危ないところは柵が張られ立入禁止になるでしょう。

ここで私は、かつて小沢一郎が政治家として注目されていたころに書いた「日本改造計画」(講談社、平成5年)を思い出します。 この本の出だしは(私は読んでないのですが)、小沢一郎がアメリカでグランドキャニオンを見て、柵などの安全措置を一切していないことに感動した、日本ではこうはいかない、という話から始まるのだそうです。 そして小沢一郎は、日本社会においてももっと、規制緩和、自己責任、自由競争という考え方を押し広げていくべきだ、という論理を展開します。

最近、この本は小沢一郎が書いたのではなく、複数の学者(小泉内閣のとき大臣だった竹中平蔵とか、政府の諮問委員をやってた伊藤元重とか)がゴーストライターとして書いたことが明らかにされましたが、これらの学者はその後、政界や学界でも主流の地位を占め続けたので、「日本改造計画」に書かれたことはそのまま、近年の日本の政策に反映しているはずです。

…いつもハワイと話がずれていきますが、この夏ハワイで見た光景を踏まえて、そういった話を続けます。