橋下弁護士の思い出 3(完)

少し間があきましたが、前回の続き。

橋下さんが大阪府知事になってしばらく、報道はまさに橋下府知事べったりの内容が多かったです。私自身は、人気者が政治家になってはロクなことがない、と思うほうなので、府知事選挙のとき橋下さんには投票していないし、その後、維新の会には一票も入れたことがなく、それは今でも私の自慢であると思っています。

 

過去に書きましたが(当時の記事。6年前です)、橋下さんが府知事のとき、とある場で、民間なら赤字の制度や部署は廃止して当然だ、と主張したのに対し、公務員側から、公共部門においては赤字でも存続させるべき分野があるのではないか、との指摘がありました。

橋下さんはそれに対して「それは、府民への冒涜です」と言いました。

私自身は、公共サービスが赤字のときに地方公共団体がどこまでのことをすべきか、というのは非常に重要な問題で、それだけに政治家の見識が問われると考えているのですが、橋下さんは、「赤字なら潰す」のが正義と考えていて、それに疑問を呈する人には「府民への冒涜」と言って突き放しました。

マスコミは、公共部門の赤字をどうまかなうかという経済学的な議論が理解できず、ただ橋下人気に乗っかって、一見してわかりやすい言葉の切れ端だけ伝えました。ですから新聞やテレビの報道では、「橋下府知事、『府民への冒涜だ』」などと見出しをあげて、あたかも冷静な議論を求める人たちが「府民を冒涜」したかのような表現をしました。

 

橋下さんは終始こうして、わかりやすい言葉で敵を批判するのが得意でした。その舌鋒するどさは、弁護士として、原告と被告、味方と敵、と立場がハッキリ別れている状況で、相手を批判する際には、依頼者にとって非常に頼もしく感じたのかも知れません。

でも府政や市政においては、味方も敵もありません。異なる考え方を持つ人たちをどう説得して調整するかが政治家の役割ですが、橋下さんにはそのへんの能力は皆無でした。

ここで取り上げてきた公立幼稚園の廃止や民営化は一例にすぎず、府民・市民にとって必要と思われるものを潰しにかかり(今はうやむやになってますが市立図書館や市立大学など)、一方でわけのわからない制度(不祥事ばかりの民間校長その他、枚挙にいとまなし)を公費で導入しました。

やり手の弁護士としての「突破力」が一部の府市民にはウケたようですが、政治は突破力ではなく、泥臭い利害調整を行う忍耐力が必要なのです。

 

かくて、政治家には全く向いていなかった橋下さんですが、ここで述べてきたとおり、弁護士として「業界のあり方を変えていきたい」と語っていた橋下さんの姿を、私は今でもよく覚えています。

やはり、論理の世界に生きるべき弁護士が、多数を頼みにする政治家になるというのは、なかなか成功しないのかなと思います。

いろいろ述べてきましたが、私はそういう次第で、同業でもある橋下さんが……、やっぱり大嫌いです。

橋下弁護士の思い出 2

前回の続き。

橋下弁護士が茶髪のタレント弁護士として「行列のできる法律相談所」(以下「行列」)に出ていたころ、私にも、この番組への出演オファーが来たことがあります。たしか平成16年ころの話です。

テレビ局だったか、下請けの番組制作会社だったかの女性から私に電話があり、「行列」の企画として、レギュラー弁護士と若手弁護士の対決みたいなのをやるとのことでした。

それに出演できるかという打診だったわけですが、アドリブに弱いこの私が、島田紳助や橋下弁護士・丸山弁護士らと面白いやり取りができるとは到底思えない。それでも、大阪人としてのイチビリ精神もあり、とりあえず詳細を聞きたく、「その企画が固まってきたら、また話を聞かせてください」と返答しておきました。

私としては詳細を聞いてから考えるつもりだったのが、先方としてはOKの返事だと受け取ったらしく、その女性から、改めて電話連絡がありました。

収録は何月何日の日曜日で、東京のどこそこで行ないます、と聞かされました。

 

しかし、私は当時、弁護士業の傍ら、司法試験予備校での講師もしていて、土日は講師の仕事でふさがっていたのです。それに何より、そっちから出てくれと言っておきながら、こちらの都合も聞かずに収録の日を決めるとはどういうことだ、と思いました。

こちらの都合を聞かなかった以上、たぶん「その他大勢」の一人としての扱いになるわけでしょうし、その程度のことでノコノコと東京に出ていくのも節操がないと感じました。

それで私は「その日程だと収録には参加できませんので、話はなかったことに」と答えました。

 

で、「行列」の若手弁護士バトルの回は、平成17年あけころに放映されたはずです。私は出ていませんし、見てもいません。

この話を、当時講師をしていた予備校の受講生たちに話したら、休講にしてでも収録に行ってほしかった、自分たちの先生が「行列」に出たって自慢できるのに、と言われました。でも私は今でも「その他大勢」で出なくて良かったと思っています。

 

こういう次第で、「行列」で私と橋下弁護士があいまみえるのは幻と消えました。

橋下弁護士はその後、皆さまご存じのとおり、「行列」を降板して大阪府知事となり、大阪市長となって、今に至ります。

政治の世界に入ってしまった以上は、今後より一層、お会いする機会もないだろうと思っています。

 もう一度だけ続く。

橋下弁護士の思い出 1

大阪市政批判の政治向きな話が続いたので、ここから2、3回は、気分を変えて完全に雑談でも書きます。橋下市長批判ばかり書いているので、私のことを橋下嫌いと思っている方もおられるかも知れませんが、実は「同業」のよしみを感じなくもありません。そのことに触れます。

 

私が橋下さんと初めて会ったのは、私が司法試験に受かって、司法修習生として研修中のころですから、平成11年ころのことです。あのころは、大阪弁護士会の派閥(自民党ナントカ派みたいに派閥があるんです)の主催で、弁護士と司法修習生の名刺交換会みたいなものがよく行われてました。

弁護士からすればリクルートであり、司法修習生にとっては法律事務所への就職活動です。

そこに参加していた一人が橋下弁護士でした。私も多少の会話をしましたが、橋下弁護士が「僕はこの業界のあり方を変えていきたいんです」と、静かながら熱く語っていたのが記憶に残りました。

いただいた名刺に写真が載せてあって、茶髪になる前の姿でした。

橋下さんは弁護士のキャリアとしては私の4期上ですから、当時で弁護士3年目くらいで、まだタレント活動をする前でした。その名刺は捨ててしまったのですが、残しておけば話のネタになったのにな、と思います。

 

その後、私は難波の法律事務所に就職し、イソ弁(=居候弁護士。勤務弁護士のこと)として働きだしました。

橋下弁護士は唐突に茶髪になってテレビに出て、「行列のできる法律相談所」で全国的に有名になりました。お前が言ってた「業界を変える」ってのは茶髪でテレビに出ることか、と私は内心でつっこんでました。

 

ある日、私が西天満のとある弁護士事務所に急ぎの用件があり、そのビルの1階で止まっていたエレベーターに駆け込みました。すると、そのエレベーターに橋下弁護士が乗っていました。そのビルには橋下弁護士の事務所も入っているのです。

橋下弁護士は、たぶんマネージャーらしき人と一緒にいました。別に言葉を交わしたわけではなく、私は無言で乗っていました。

エレベーターが止まって扉があいて、私が降りようとすると、橋下弁護士が私に、「あ、ここ、3階ですよ」と言いました。私が用事のある弁護士は5階だったか6階だったか、もっと上の階です。

橋下弁護士は、私が何階のボタンを押したかを見ていて、違う階で降りようとしているのに気付き、わざわざそれを教えてくれたのです。割と周囲に気を配ってる人なのだなと、そのとき思いました。

 

これが、今までのところで、私が橋下弁護士の「実物」と会った最後の機会となりました。

ただ、もう一度、橋下弁護士とあいまみえる機会があったかも知れないのですが、その話は次回に続きます。