「冷凍庫写真」の店員に店舗閉鎖の責任を問えるか。

大阪市の幼稚園民営化の第1期案が発表され、思うところは多々ありますが、それに対する反対運動は今後も私のほうで進めていくとして、当ブログでは、そろそろ別の話題に行きます。

 

最近、コンビニや飲食店の店員が、冷凍庫に入ってふざけている写真をネットに載せて、大問題に発展したりしております。

この問題に限らず、多くの方がお気づきだと思いますが、インターネットというのは便利な反面、人をアホにしてしまいます。

どんなことでも、ある事柄や問題についてネットを検索すれば、自分と同じ見解を持っている人のサイトなどに行き当たることができます。自分の頭で調べたり考えたりすることなく、ネットだけ見て安心してしまう。

また、どんな愚にもつかない投稿であっても、フェイスブックやら何やらで、たいていのことには何人かが「いいね!」と言ってくれます。それで、自分の言動が常に賛同、賞賛されていると思い、その言動をエスカレートさせます。

今般の事件は、そういう、ネットでアホになった人たちがしたことで、それについてこれ以上ここで論じようとも思いません。

ただ、ブロンコビリーというステーキ屋が、冷凍庫に入った写真をネットに載せた社員を解雇し、損害賠償請求までするというニュースがあったので、この点についていちおう法的に検討したいと思います。

 

こういう場合、店側は社員にどこまで損害賠償請求ができるか。

たとえば、ローソンでは冷凍庫のアイスの上に人が乗っかっていましたが、それで形が崩れたりして売り物にならなくなったアイスの原価分については、店員の不法行為を理由に損害賠償請求が可能でしょう。

ネットに載せた場合は、風評被害による精神的苦痛を受けたことを理由に、多少の慰謝料は請求できるでしょう。

 

では、その店員をクビ(解雇)にするのは適法か。

法的には、その職場の就業規則で定められている解雇事由にあたるかどうかの問題ですが、多くの場合、「会社の信用を著しく毀損した場合」は解雇できるなどと書かれているでしょうし、それに該当する(つまり解雇できる)のだろうと思っています。

仮に、問題を起こした店員が「解雇は無効だ」と争ってきても、恥の上塗りになるだけでしょう。

 

さらに、ローソンでは、店を閉鎖するという処置をしました。これがモデルケースになって、この手の問題が発覚した店舗は皆、店を閉めてしまっているのですが、その分の損害賠償(店舗閉鎖による売上げ減や、店の撤去費用など)を求めることはできるでしょうか。

ブロンコビリーがどこまで考えているかは知りませんが、そこまでは無理なのではないか、というのが私の考えです。

たとえば、実際に食中毒を出してしまった飲食店でも、食品衛生法に基づいて何日かの業務停止処分を食らうことがあっても、たいていは営業再開していることを考えると、店を閉めてしまうのは行き過ぎた自主規制であって、それはあくまで会社の判断であり、そこまで店員の責任にできるわけではないように思えます。

 

おそらく私なら、自宅の近くのコンビニでそんな事件があったとしても、商品さえ入れ替えてくれれば、たぶんまた利用するでしょう。

発覚、即、閉鎖という過剰な自主規制をしてしまうのは、経営者側もまた、ネット情報に毒され、ネット上での風評被害を過大に配慮してしまったことによるのかも知れません。

いま「維新」がうまくいかない理由 続き

前回の続き。

日本維新の会を典型に、やたら「維新」という言葉が好きの人の行動の特徴としては、①従来の制度や機構を潰せば潰すほど良いと思っていること、それから、②従来の組織のトップを入れ替えて、特に民間から人を登用したがること、が挙げられると思います。

そしてそれは、前回書いたとおり、明治維新の一側面だけを見て、それを無理に現代にあてはめようとする勘違いから来ると思います。

大阪では、水道事業の統合と、市営地下鉄の民営化が、上記①にあたります。水道のほうは議会で否決され、地下鉄は継続審議となりました。ここでも度々触れている市立幼稚園の民営化も、①にあたりますが、これは後で触れます。

 

それから、大阪市内24区の公募区長や、公立小中学校の校長の民間からの登用は、上記の②にあたります。公募区長の一人は1年もしないうちによく分からない理由でクビになり、校長は3か月で辞めてしまったことは、多くの方がご存じのとおりで、早いうちから失敗続きと言えます。

これも前回書いたとおりで、身分や階級が270年に渡り固定していた幕末のころならともかく、能力主義が浸透している現代では、公募したところで由利公正みたいに優秀な人が来るとは思えません。

 

そして、また幼稚園民営化の話ですみませんが、今、大阪市で現在進行中の問題でもあるので、もう少しだけ触れます。

橋下市長と公募区長らが熱心に進めようとしていた市立幼稚園の民営化は、当初「平成26年度をもって全廃」とされていたのが、少しずつ、トーンダウンしています。

今、どうなっているかというと、私たちが伝え聞くところでは、各区の幼稚園のうち、最低1つは民営化するようにと、橋下市長が各区長に指示を出したそうです。私の住む西区には5つの市立幼稚園があり、そのうち1つが民営化の対象となるということです。

 

ちょうど昨日のニュースなどでも、橋下市長の方針として、平成27年度以降、3期に分けて徐々に民営化していくことにした、と報道されました。

これも私たちがすでに伝え聞いていたとおりで、「1期目」というのが、各区最低1つの幼稚園を民営化するということです。2期目以降はというと、どうせ実現できなくなってウヤムヤにするつもりでしょう。

 

この顛末に、「従来の制度や機構を潰せば潰すほど良い」という、維新好きの連中の勘違いが如実にあらわれています。

市立幼稚園を民営化する意義やメリットが本当にあるのなら、市民の前や市議会の場で堂々とそれを主張し、全面的な民営化を進めていけば良いのです。意義もメリットもないのなら、民営化は一切ナシにすればいい。選択肢はそのいずれかしかないはずです。

まずは一部だけ廃止、などというのは、市長や維新の会の意地とメンツだけからくる、姑息な手段です。しかし彼らは、潰せば潰すほど良い、と考えているわけですから、「5つの幼稚園を潰せればベストだが、それができないなら1つだけでも潰せればベターだ」、と考えます。そこには民営化の大義など何もありません。

これが大阪で行われようとしている「維新」です。嗤うべき維新です。

いま「維新」がうまくいかない理由

先日の参院選はご存じのとおり自民党の大勝でした。

私の大阪選挙区では維新の会がかろうじてトップで当選したものの、他の地方では無残な負け方でして、これはつまり、維新の会の「大阪の改革を全国に広げる」という方針に、大多数の国民はNOと言ったわけです。

 

私見ですが、日本維新の会に限らず、自分たちの行動を明治維新になぞらえて、やたら維新を唱えたがる人は、たいてい、うさんくさいです(そういえば民主党が4年前の衆院選で政権交代したとき、鳩山が「明治維新に匹敵するできごとだ」と言いました。その後のことは皆さんご存じのとおり)。

そもそも、明治維新というのは、徳川体制下で下級武士が暴発して起こった革命です。

司馬遼太郎が何かの小説の中で書いていたことですが、この暴発は、当時の世界史的状況や諸々の偶然から、結果として奇跡的に成功したにすぎないものであると。しかし、「これでいける」と思ってしまった人たち(主に末期の日本陸軍)が暴発を続け、結局、大日本帝国を滅亡させてしまったのだと。

この司馬さんの見立てが、歴史家の目からみて当たっているのかどうかは知りませんが、たしかに、二・二六事件などを起こした陸軍将校たちは、「昭和維新を起こす」と言っていたそうです。

 

ついでに、司馬さんがこれと対照的に天才だったと称する一人が織田信長で、桶狭間の戦いで今川義元の軍に奇襲をかけ勝ちますが、信長は、これは一世一代のバクチに勝ったようなものであることを理解しており、以後二度とこのような戦いぶりをすることはありませんでした。

 

さらに雑談ついでに、明治維新以外で、「維新」と名のつくもので成功したものがあるのかというと、新日本プロレスの長州力の「維新軍」くらいでしょうか。アントニオ猪木、藤波辰爾らの子分と思われていた長州力がプロレス界の秩序に反旗を翻し、その名をあげましたが、これはまあ、あくまでプロレスの世界の話です。

 

で、維新好きの人たちのことに話を戻しますが、彼らは明治維新の一面的な部分にのみ注目し、それを無理やり現代にあてはめようとします。

明治維新が最も輝かしく描かれている書物の一つとして、また司馬さんの本になりますが、「竜馬がゆく」が挙げられるでしょう。

土佐藩の下級武士の坂本龍馬が、旅をしながら長州の桂小五郎(木戸孝允)や薩摩の西郷さんら有志を仲間にしつつ、ついに大政奉還を実現させる。その後は、由利公正みたいに能力があるのに藩に謹慎させられている人物を釈放させ、明治政府を作っていく。

男であれば(たぶん女の人でも)血わき肉おどる話で、「俺もこんな改革をやってみたい」と感じた人も多いでしょう。

 

ただ、龍馬がやった改革は、関ヶ原の戦い以降270年間、関ヶ原で東軍についた家だけが国の運営に関われるという制度を固定していた状況だったからこそ、それなりの成果が上がったといえます。

この270年間、いかに能力のある人でも、武士でない人や、武士でも関ヶ原で西軍についた人は、のしあがりようがなかったのです。

 

現代は違います。どんな分野でも、能力があればそれなりに活躍ができます。国家の運営に関わりたければ、誰でも、大学に行って公務員試験や司法試験を受ければ、官僚や裁判官になれます。すでに能力主義は相当に徹底しています。

 

この、誰でも知っている事実を、維新好きの連中は見ようとしません。

国家のあらゆる制度が疲弊し、能力ある人がトップにいないなどと、ありもしない事実を掲げて勝手に嘆きながら、制度や人事をいじくり回そうとします。

今、日本維新の会のやることなすこと、全くうまく行かないのは、こういう単純なところに理由があるというのが、浅はかながら私の考えです。

次回もう少し続く。