明石歩道橋事故 免訴判決に思うこと 2(完)

前回の続きで、免訴という聞きなれない判決についてもう少し触れます。

日経新聞(20日夕刊)によると、この10年間で免訴判決は9件あったとのことです。

近年、免訴で注目を集めたのは、平成20年の、横浜事件の再審判決です。

これは、第二次大戦直後、治安維持法によって処罰された出版関係者が、治安維持法は戦後廃止されたはずであることを理由に再審を求めたもので、戦中戦後の混乱期に起きた、やや特殊なケースといえるでしょう。当時のブログ記事。 

まだ他に8件あるというのですから、私には意外に多いなと感じました。

免訴は前回書いたとおり、法律が廃止されたとか、時効にかかったなどの場合に言い渡されるのですが、そんな事件、普通に考えて検察は起訴しないだろうからです。

 

検察側(検察官役の指定弁護士。いちいち断るのが面倒ですが)の論理は、前回書いたとおりで、過失の共犯が成立するから時効は止まっていた、というものです。

しかし、「過失の共犯」なるものが、そもそも認められるのか、これは一つの大問題です。

たとえば、故意の犯罪であれば、犯人グループが「一緒にアイツを殺ってしまおう」などと、犯行前に意を通じることができるから、共犯というものが認められる。

しかし、過失の犯罪というのは、交通事故が典型例で、意図せずウッカリ起こしてしまうものだから、意を通じて行うことは常識的に考えがたい。

この問題に対する最高裁の立場ははっきりしておらず、学説や裁判例も分かれているようです。だから、今回の歩道橋事故で副署長を有罪にしようと思えば、過失の共犯を裁判所に認めさせるという、いわばウルトラCみたいなことに成功しなければならなかったわけです。

もちろん、事故の直後に起訴していれば、時効の問題にならなかったのだから、検察の怠慢じゃないかという人もいると思いますが、今回、神戸地裁は、過失の共犯どころか過失そのものを認めなかったのですから、起訴していても無罪になっただけでしょう。

 

検察審査会の議決に基づく強制起訴では、先日の小沢一郎など、無罪判決が続いており、制度の見直しが必要との意見もあります。それに対して、いや検察が白黒つけなかった事件にきっちりケリをつけたのだから、結論が無罪や免訴というならそれでいいんだ、という声もあるでしょう。

結論はともかく裁判自体は意義があったという声も多い中、被告人になった副署長は、約3年続いた裁判を経るうちに、黒かった髪の毛が真っ白になったそうです。強制起訴という制度の過酷な一面が如実にあらわれていると思います。

この事件は検察官役の指定弁護士が控訴したらしく、まだ続きます。有罪か免訴かの最終的な決着はまだついていませんが、この件についてはひとまず以上です。

 

明石歩道橋事故 免訴判決に思うこと 1

明石の歩道橋事故で、警察署の副署長に「免訴」の判決が出ました(神戸地裁、20日)。とはいえこのニュース、すでに新聞テレビで充分、論じつくされた気もします。情報の即時性がないのは、一弁護士が片手間に書いているブログの限界としてご了承ください。

この事件は平成13年の花火大会で起きました。歩道橋に人が密集して11人が死亡したそうです。警察署や警備会社の担当者が数名、業務上過失致死罪で有罪になったのですが、トップである署長・副署長も罪を負うのかが問題となりました。

 

当ブログでも繰り返し述べていますが、ある組織のもとで何らかの事件・事故が起こった際に、その組織が賠償責任に問われるのは当然としても、組織のトップである個々人に刑事罰を食らわせるのは、よほど慎重にしないといけない、というのが私の考えです。

検察側も(手前味噌ですが)私と同じように考え、この副署長を不起訴としましたが、検察審査会は起訴すべきであると議決し、平成22年4月に起訴されました。

そして裁判所が出した結論は、有罪でも無罪でもない「免訴」で、「もう時効だから裁判しない」ということです。刑事訴訟法の337条に規定があり、時効にかかったり、法律が変わって刑罰が廃止されたりした際に出されるものです。

 

事故があったのが平成13年で、業務上過失致死罪の時効は当時の刑事訴訟法によれば5年なので、普通に考えると、平成22年に起訴した時点で時効になっている。

これを有罪に持ち込もうという検察側(検察官役の指定弁護士)の論理は、副署長も現場の担当者と「共犯」であった。そして、刑事訴訟法上、共犯が裁判にかかっている間は時効は進まない、だから副署長はまだ時効でない、というものです。

現場担当者の裁判は、平成14年から19年まで続いたので、この期間を除外すると、確かに時効の5年は過ぎていないことになります。

 

しかし、神戸地裁は、副署長に過失はないし、過失の共犯も成立しない、と言いました。

警察署の副署長クラスの人が、個々の現場での警備にまで関与しているわけではないし、担当者と共同作業していたわけでもないから、刑事責任までは問えない、ということです。

警察としての組織的責任、道義的責任の問題はさておいて、副署長個人の刑事責任の有無については、極めて真っ当な判断であったと、個人的には考えています。

次回もう少しだけ続く予定。

尖閣寄付金の返還請求は可能か

少し前、新聞かネットで、尖閣諸島の購入のために東京に寄付をした人の一部が、それを返せと言いだしたという話を聞きました。時期を逸した感もありますが、その件について触れます。

 

ご存じのとおりで、東京都の石原都知事(当時)が、東京で尖閣諸島を買い取って中国の侵略から守ると言いだして、東京都がそのための寄付を募ったところ、多くの賛同者から、合計10数億円の寄付金が寄せられました。ちなみに私は大いに賛同したものの、寄付まではしておりません。

しかし結局、野田総理(当時)が国で買い取ると言いだし、国有化されました。

石原さんの東京都なら尖閣をきっちり守ってくれると思ったから寄付したのだ、都が買わないのなら返せ、と言いたくなる気持ちもわかります。その主張が法的に認められるかについて、ちょっと検討します。

 

何らかの理屈を考えるとすれば、一つには民法95条の「錯誤」で、錯誤(勘違い)に基づく意思表示は無効にできる、というのが挙げられます(もう少し専門的にいうと、動機の錯誤ではありますが、その動機は表示されている、と見ることも可能と思います)。

もう一つは民法553条の「負担付き贈与」で、贈与をする場合に負担(条件)を付けることができるというものです。寄付をするに際して、東京都が尖閣を買うという条件がついていた、その条件を果たさなかったのだから、契約違反で贈与を取り消す、というわけです。

 

似たような話が、大阪にもあったのを思いだしました。児童文学者らが、大阪府立の児童文学館に多数の児童書を寄付しましたが、橋下府知事(当時)は、児童文学館を廃止して本は府立図書館に移す、と言いだしました。

児童文学者らは、児童文学館のためと思って寄付したのだから、廃止するのなら返せ、ということで裁判を起こしました。当時のブログ記事はこちら(平成21年3月記)。

その後のことはブログに書いていませんでしたが、平成23年に、児童文学者らの請求は棄却されています。贈与契約の上で、府側に、児童文学館を存続させ、そこで寄贈本を保管する義務(負担)までは定められていなかった、というのが理由のようです。

 

東京都の問題に戻りますと、結局ポイントとなるのは、東京都が寄付を募る際に「尖閣諸島を購入するための資金にします」と明確に用途を限定していたかどうかでしょう。

実際には、寄付を募るホームページや文書に(私ははっきり覚えていませんが)「購入または活用のため」と書かれていたらしく、そうなると「今後、国に寄付して活用してもらう」と言われれば、東京都に義務違反はない、となってしまいそうです。

東京都への寄付金返還請求は南堀江法律事務所へご相談を!と宣伝しようかと企んでいたのですが、無理そうなので宣伝は差し控えておきます。

体罰教師はどう裁かれたか 3(完)

生徒を叩いた教師に無罪の判決を下した昭和56年の東京高裁判決を、前回に引き続き、紹介します。判決文は、極めて詳細に論じているのですが、ごく概要のみ述べます。

判決は、学校教育法11条が禁じている体罰とは「懲戒権の行使として相当と認められる範囲を越えて有形力を行使して生徒の身体を侵害し、あるいは生徒に対して肉体的苦痛を与えることをいう」と定義します。

「有形力の行使」というと小難しいですが、物理的な力を加えること、つまり手を出すことと理解してください。

そうすると、東京高裁は、教師が生徒を懲戒するやり方として、「口頭で注意する=適法、体罰を行なう=違法」という2分類だけがあるのでなく、その間に「手は出るけど相当の範囲内=適法」という行為が存在すると考えているわけです。

 

もちろん、手は出さないに越したことはない、でも、生徒を励ますときなどに肩を叩くなどのスキンシップも一切できないというのもおかしいし、また、生徒をたしなめる際に口頭だけでは「感銘力」に欠けてしまうこともある(「感銘力」というのは判決文の表現そのものです。何だかそういうタイトルで本でも出せそうな言葉です)。

そういう理由で、教師には、一定限度で有形力を行使することを認めてやらなければ、「教育内容はいたずらに硬直化し、血の通わない形式的なものに堕して、実効的な生きた教育活動が阻害され、ないしは不可能になる虞れがある」と。このカッコ内は判決文そのものの引用でして、判決文には似つかわしくない、熱のこもったことを言っています。

そして、本件に関して言えば、生徒をたしなめる必要性や、暴行の程度が必ずしも強くないことなどから、相当の範囲内であって違法でない、と言ったわけです。

 

長々と解説してしまいましたが、結論自体は、多くの人にとって常識に沿った内容ではないでしょうか。体罰が禁止されると言っても、判例上は、手を出したら即処罰というわけでは決してないことを、知っておいていただければと思います。

 

補足ですが、この記事を書くついでに教育法関係の本を参照しているうちに、最高裁でも、民事事件ですが、一定範囲で手を出すことを適法と認めた判決を知りました。今回紹介した東京高裁以上のことは言っていないので、これ以上は触れませんが、日付だけ紹介しておきます。最高裁平成21年4月28日判決です。

あと、紹介してきた上記の東京高裁の事例ですが、これまで男性教師と書きましたが被告人は女性教師のようでしたので、訂正します。

柔道界なども体罰問題でゴタゴタしてきましたが、この問題についてはひとまず以上です。

体罰教師はどう裁かれたか 2

前回の続きです。

お読み出ない方は、前回記事の最後の事例を読んでいただくとして、この教師がなぜ無罪になったか、やや理論的に検討します。

 

まず、生徒は教師に叩かれた8日後に脳内出血で死亡しています。紹介した他のケースでは傷害致死罪が成立していますが、この教師は死の責任を問われていない。その理由はというと単純で、叩いたことと死亡したことの因果関係が証明されなかったからです。

人を叩いて死なせるには、相当に強度の力が必要になるでしょう。しかし、叩いた現場を見ていた他の生徒たちの証言からは、そんなに強く叩いていた様子もなかった。また医学的にも、叩かれたところが悪化して死に至ったという証拠も出なかった。

生徒はその当時、もともと風疹のため体調が悪かったそうで、だから脳内出血を生じるのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ「叩いたことが原因で死んだ」と検察が立証できない以上、死の責任は問えません。

 

では、叩いたことは事実なのに、暴行罪すら成立せず無罪になったのはなぜか。

それは一言でいいますと、刑法上の「正当行為」にあたるとされたからです。

似たような制度で「正当防衛」というのがあって、これはご存じかと思います。このままでは自分が殺されるという状況で、襲ってくる相手を殺したような場合、形の上では殺人罪にあたりますが、身を守るためにやむをえなかったということで、無罪とされます。

正当防衛を定める刑法36条の1つ手前の35条に正当行為の規定があり、「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」(つまり無罪)とされています。

この条文がないと、警察官が容疑者を捕まえるのは逮捕監禁罪、医師が患者の体にメスを入れるのは傷害罪になってしまいます。これらは警察官や医師の「正当な業務」だから許される、ということです。

 

ついでに、民法822条には、親権者は子の監護教育に必要な範囲でその子を懲戒することができる(要約)とあり、親がしつけのために子を叩くことも、「法令」に基づく行為として、許されます。もちろん、限度を超えたり、教育とは関係ない虐待であったりすると、罪になります。

そして、学校教育法11条では、教師は教育上必要があるときは、生徒に懲戒を加えることができる(要約)とあります。しかし親と違うのは、この条文に但し書きがあって、「ただし、体罰を加えることはできない」と明確に定められていることです。

したがって、条文をただ普通に読むと、教師は体罰を加えてはいけない、学校教育法で禁止されているのだから、体罰を加えたら正当行為でなくて犯罪になる、ということになります。

 

ですので、生徒を叩いた教師を無罪にした昭和56年の東京高裁の判決は、条文をただ普通には読まなかったということになります。つまり一定範囲で体罰を許したわけですが、その論理については次回、詳細に述べる予定です。