大王製紙の背任事件に見る実刑と執行猶予の分かれ目

大王製紙の前会長・井川意高氏(以下敬称略)に対し、特別背任罪で懲役4年の実刑判決が下りました(東京地裁、10日)。

この事件、多くの方がご存じだと思いますが、井川が、大王製紙の創業者一族として、社長の立場にあったのをいいことに、関連会社を含めて総額約55億円を借りて、夜遊びやカジノに散財したという事件です。

 

背任とは、わかりやすく言えば、他人のために働く立場にある人が、その地位を悪用して利益を得るという犯罪です。刑法247条で5年以下の懲役。

会社の社長などは、会社のために働く義務があるのに、その地位や権限を悪用して自身の利得をはかりがちなので、会社法960条で特別背任罪という条文が用意されていて、懲役10年以下と、さらに刑罰が重くなっています。

 

井川の弁護人は、創業一族が大王製紙の株を売って、それで55億円を返したのだから、執行猶予にすべきだ、と主張したようですが、裁判所は受け入れませんでした。

ここで私は、音楽プロデューサーの小室哲哉氏(以下敬称略)の事件を思いだします。小室は、自分の曲の権利を売るなどと言って他人から5億円をだまし取ったとして、詐欺罪で起訴されました。なお、詐欺罪は刑法246条で、10年以下の懲役なので、条文上の罪の重さは特別背任罪と同じです。

結果は、懲役3年・執行猶予5年の判決でした。まだ執行猶予中のはずですが、5年間まじめにしていれば、小室は刑務所に行かなくてすみます。

小室は執行猶予、井川は実刑判決。井川はまだ高裁、最高裁と争うのかも知れませんが、この判決が確定すれば、すぐにでも刑務所に行かなくてはなりません。この2人の差はどこから来るのか。

 

以前、小室に執行猶予判決が出たとき、実刑と執行猶予の分かれ目について、思うところをブログ記事を書きました(こちら)。

要約すると、1つは被害弁償が充分になされたかどうか、もう1つは本人の「今後まじめに生きて行きます」といった反省の弁を裏付けるだけのものがあるかどうかである、と書きました。

小室は、5億円の詐欺被害に対して、利息と慰謝料あわせて6億5000万円を払いました。エイベックスに立て替えてもらったようですが、いずれにせよ、個人に対する被害弁償としては充分と思われます。

一方、井川による被害額は、55億円です。金額だけでも小室の11倍で、これだけでも実刑に値すると言えるかも知れない。また、一族が株を売って返したとはいえ、企業の運転資金に長い間、55億円もの穴をあけたわけだから、企業経営をたいへんな混乱に陥れたでしょう。それを考えると、最終的には返したでしょ、と言って済まない部分もある。

また、小室は世の中に出てまた真面目に音楽でも作っていれば、立ち直りも期待できるし、エイベックスが立て替えてくれた6億5000万円だってきちんと返せるかも知れない。

しかし、井川は企業グループの御曹司で、「金持ちだからモテてた」というだけであって、それを離れるとどうやって立ち直っていくのか、よく分からない部分がある。自分の才覚で改めて55億を稼いで一族に返せるとも思われない。

 

そのあたりが考慮されたのではないかと思います。なお、この記事は新聞やネットニュースの報道で知りえた事実に基づいて、あくまで私(山内)の個人的見解を述べたものであることを最後に付言させていただきます。

「豊かな言葉」について弁護士が考えたこと 2

前回、プラトンの「ソクラテスの弁明」にもとづいて、ソクラテスに死刑判決が下ったところまでお話ししました。その続きを、同じプラトンの著書「クリトン」「パイドン」に沿って書きます。

 

ソクラテスは牢屋に入れられ、死刑を待つ身となりました。しかし、いまだソクラテスを支持してくれる有力者もいて、彼らは、牢屋の番人にワイロ(裏金)を渡してソクラテスを脱走させる準備をします。

そして、ソクラテスの弟子のひとり、クリトンが牢屋にやってきて、「あんなデタラメな裁判にしたがう必要はない」と、ソクラテスに脱獄するよう言ったのですが、ソクラテスはきっぱりと断ります。

有名な「悪法もまた法なり」の話です。ソクラテスは言いました。

「私はこれまで、アテナイの住民として、アテナイの国と法律に守られながら、平穏に暮らしてきた。いま、国が法にのっとって決めたことが、たまたま私に都合の悪いことだからと言って、それを破ることはできない」と。

そして死刑執行の日、ソクラテスはたくさんの弟子に囲まれながら、アテナイの役人から渡された毒いりの杯を静かに飲みほし、死んだのです。

 

何とまあ、ソクラテスはガンコで変わった人のようでした。それでも、自分の信じるところに従って、最後まで自分の言葉を曲げずに、堂々と死を受け入れた、そのあたりに、一種の爽快さを感じます。

私はいま弁護士となって、言葉や論理を武器に仕事をしているわけですが、もしかしたら、中学生のときにソクラテスから受けた強烈な印象が、弁護士を目指した原因の一つになっているのかも知れません。

 

豊かな言葉について書くと言いつつ、ぜんぜんそんな話になってない、ですって?

まあ、それが大人の社会というものです。そもそも、ネットの見出しに大きな期待を寄せてはいけません。ネットに書かれてあることは、このブログも含めて、ろくでもないことばかりです。ネットで豊かな言葉を探すヒマがあったら、今すぐパソコンの電源をオフにして、プラトンでも何でも読んでみましょう。

 

「何か言葉を拾わないと課題が完成しない」という人に、最後に一つの言葉を紹介します。

ソクラテスが毒を飲んで横になり、それが全身に回って、もうすぐ死ぬというとき、ソクラテスはふと顔をあげてクリトンに言います。

「アスクレピオスに鶏を捧げておいておくれ」と。これが最後の言葉になりました。

アスクレピオスとは、古代ギリシアの医学の神様で、当時の人々は、病気が治ったとき、この神様に鶏をお供えする習慣があったそうです。ソクラテスは、死んで魂が肉体から解放されることを、病気から回復することのように考えていたのでしょう。

みなさんもこの冬、風邪などひいて学校を休んでしまったりしたら、風邪が治って学校に復帰したとき、「ふ、アスクレピオスに鶏を捧げてきたぜ」とでも友達のみんなに言ってみてください。カッコいいかどうかは責任持ちませんが。

おわり。

「豊かな言葉」について弁護士が考えたこと 1

ここしばらくの謎が解けた思いです。「弁護士 話し方」という検索ワードが急増した件について、小学校の先生からコメントをいただきました。5年生の国語の授業で、「豊かな言葉の使い手になるためには」という単元をやっているのだそうです。

学校の先生の予習のためとか、児童の調べ物として、検索されることが多いのでしょう。小学生の目に触れることもあるのだとしたら、以下そのつもりで、文章をやや易しくして書きます…。

 

「言葉」を学ぶためにこのブログを見てくださっている皆さん、こんにちは。

「豊かな言葉」ということを学校で勉強されているそうですが、私たち弁護士は、どちらかというと、「訴えますよ」などといった、殺伐(さつばつ)とした言葉を使うことが多いので、参考になることは少ないと思います。

ですので、ここは私が、昔、言葉について考えたことを、少しお話ししたいと思います。

 

私は中学生のころ、クラスで図書係をやっていて、図書室でよく、プラトンという大昔のアテナイ(いまのギリシアの首都のアテネにあたります)の哲学者が書いた本を読んでいました。ちなみにどうしてそんな本を読もうと思ったかというと、何となくカッコいいと思ったからです。

それはともかく、プラトンの著作の中でも一番好きだったのは、「ソクラテスの弁明」です。

 

ソクラテスは、プラトンのお師匠さまにあたる、えらい哲学者です。この人がどういうふうに毎日をすごしていたかというと、アテナイの街をうろうろしながら、当時「ソフィスト」と呼ばれた知識人をつかまえては議論をし、その人たちを言い負かしていたそうです。

ふつうに考えて、イヤな人ですよね。私も、バーや居酒屋で飲んでてソクラテスが隣に座ってたら、決して話しかけてほしくないと思います。

でもソクラテスとしては、本当の「知」とは何かを追い求めていて、うわっつらだけの知識でいい気になっている人たちの目を覚ましてやりたいと思っていたのでしょう。

 

しかし、ソフィストたちは面白くありません。そこで誰かが「ソクラテスは街で若い人をつかまえては邪教(悪魔の教え)を吹き込んでいる」と、アテナイの裁判所に訴えた。

邪教を教えた人の罰は、よくて国外追放、最悪の場合は死刑です。

その裁判の終わりにソクラテスは、自分の処分はどれくらいが良いと思うか、発言の機会を与えられました。このときソクラテスがひとこと「すんません、せめて国外追放くらいにしといてください」とでも言えば、それで収まったでしょう。ソクラテスに対し同情を寄せる人もいたからです。

しかしソクラテスはこう言いました。「私は本当の『知』を得ようとして、世の中の若者のためになることをやった。だから私にふさわしい処分は、迎賓館(げいひんかん、VIPルームみたいなものです)で豪華な食事をすることだ」と。それで裁判を見に来ていた人はみんな、ソクラテスはけしからんと考えてしまい、死刑の評決となりました。

ここのところは、現代の私たちでも理解できると思います。重い犯罪をしたと疑われて裁判にかけられ、死刑か無期懲役かのせとぎわにある被告人が、泣いて反省するのではなく、「俺、ええことしたんやから、銀座のすし屋で特上にぎり1人前とお酒を出してや」などと言ったら、誰だって、「こいつは死刑でいい」と思うでしょう。

かくて、ソクラテスには死刑判決が下りました。

 

相手に対して発した言葉、相手に良かれと思って言った言葉が、時として、このような結末をもたらすことがあります。

次回につづくので、宿題の提出に間にあいそうなら、また見に来てください。