小沢一郎と木嶋佳苗、有罪無罪の分かれ目 1

小沢一郎の無罪判決について、続き。

有罪すれすれだけど無罪になった理由は、4億円の政治資金を帳簿に載せなかったことが、違法な虚偽記載であると知らずにやっていた可能性がある、という点にある…と言われてもよくわからない話だと思います。

ひとまずここでは、今回の裁判所の判断の仕組みを、他の事件と比較して述べてみます。

 

最近注目を集めた事件として、木嶋佳苗という自称セレブ女性が、付き合った男性を次々に殺害したという容疑で起訴され、裁判員裁判を通じて死刑判決が出たことは、よくご存じのことと思います。

この事件では、木嶋本人は殺害を否認しており、また被害者にあたる男性も皆死んでいるので、目撃者もいない。直接証拠がなく、検察は間接証拠だけで殺人を立証することになりました。

 

直接証拠というのは、その証拠から犯罪事実が直接導かれるものを言います。

典型的には容疑者本人の「私が殺しました」という自白、それから目撃者の「あいつが殺すのを見ました」という目撃証言がこれにあたります。いずれもそこから、「殺した」という犯罪事実が導かれます。もちろん、自白にも目撃証言にも、ウソが混じることがあるので、本当のことを言っているかどうかは慎重に検討する必要があります。

 

間接証拠(間接事実とか、状況証拠とも呼ばれる)とは、直接に犯罪事実が導かれるわけではないけど、状況からして「あいつが犯人だろう」と推定できるというものです。

具体例を示したほうが早いと思いますが、木嶋佳苗の裁判では、「木嶋が付き合っていた男性が3人連続で練炭自殺の形で死んでいる」「男性の死亡現場にあった練炭と、木嶋が購入した練炭は同じものである」などがこれにあたります。

ここから直接、木嶋が男性を殺した、と言えるわけではないですが、通常の判断能力を持つ人が推理を働かせれば、やはり木嶋が殺したんだろう、と認定できる、ということです。

(木嶋佳苗被告人は死刑判決に対し控訴しており、今後、高裁での審理が続きます。あくまで、1審の東京地裁はこう判断したが、ただ今後も高裁で審理は続く、という前提でお読みください)

 

直接証拠がなくて間接証拠だけで有罪を立証しないといけない、という点では、小沢一郎の裁判も同じでした。

小沢本人は否認している。一部の秘書が「小沢先生に指示されてやりました」と検察官の前で述べて、その供述調書があったそうですが、検察の取調べに問題があったということで、その調書は証拠としては採用されませんでした。

間接証拠に基づく審理で、木嶋佳苗は有罪で死刑判決、小沢一郎は無罪となりました。その判断の分かれ目はどこにあるかということについては、次回に続きます。

小沢一郎無罪の理由

小沢一郎の刑事裁判は、ご存じのとおり、無罪判決となりました。

無罪の一報を聞いたときは、やはり有罪にするには無理があったのか、とも思ったのですが、判決内容の報道などを見ると、ぎりぎりのところの無罪であったようです。

ここで何度も書いたように、検察が起訴するのをあきらめた事件であったのが、国民から選ばれた検察審査会の議決に基づいて起訴され、国から指名を受けた指定弁護士が検察官役を果たした。

この指定弁護士、例えるなら、大坂夏の陣で真田幸村があと一歩で徳川家康を討ち取るところまで行ったような、そんな働きをしています。

 

この事件での争点は多々ありますが、双方の主張と裁判所の判断は、大ざっぱに書くと以下のとおりです。

 

まず小沢一郎被告人とその弁護人(以下「弁護側」と略記)は、検察審査会の議決に基づく起訴自体がそもそも無効だと主張した。捜査の段階で検察官の行き過ぎがあり、事実に反する捜査報告書が作成されたからだ、という理屈です。

起訴が無効なら、有罪無罪の審理に入る前に裁判を打ち切ることになります。しかし裁判所は、起訴を有効としました。検察審査会が参照した報告書の一部に虚偽があったとしても、小沢一郎を裁判にかけるべきだという審査会の意思は揺らぐものではない、ということでしょう。

 

そこで次に事件の中身の審理に入ることになりますが、それは、小沢一郎が4億円の政治資金を帳簿に記載しなかったことが有罪にあたるか、というものです。

弁護側は、このお金はもともと帳簿に載せないといけないようなお金ではないから、そもそも虚偽記入にあたらない、と主張したが、裁判所は、そんなことはない、虚偽にあたる、としました。

 

虚偽記入があったとしても、小沢一郎は法廷で「秘書に任せきりであったから、自分はあずかり知らない」と証言しました。しかし裁判所は、その証言は信用できない、と断じて、秘書からの報告を受けて了承していた、としました。

秘書が「小沢センセイ、4億円は帳簿には載せませんでしたよ」と言って、小沢一郎が「ああ、そうか。わかった」などと言っていたはずだ、と認めたのです。

 

ここまで認められて、なぜ無罪かというと、小沢一郎はこうしたやり取りに際して、「その4億円は帳簿に載せないといけないものであることを知らなかった」という可能性を捨てきれない、ということのようです。

起訴は有効、虚偽記入も成立、秘書からの報告と了承あり、とそこまで認められて、最後に「違法とわかってやっていたかどうかはわからない」という部分で無罪になったのです。

本当は違法とわかってて自ら秘書に指示したんじゃないの?と思う人も少なくないと思いますが、「疑わしきは罰せず」(疑わしいだけでは処罰できない)というわけで、あと一歩、その部分を証拠で立証できなかった、ということです。

この裁判に関して少し続けます。

祇園の死亡事故と懇親会の報道について感じたこと

新聞報道などで、たまに「それが何?」という記事に接することがありますが、最近そう思ったのは、京都・祇園での自動車暴走事故の日、京都府警の人が懇親会でお酒を飲んでいたというニュースです。

 

事故そのものは、7人が死亡した痛ましい事故です。事故現場の道は、私も妻子連れで何度か通ったこともあり、個人的にもおそろしい事件だと思いました。遺族の方の悲しみは察するに余りありますし、そんな日に京都府警の人がお酒を飲んでいたと聞けば、不信感を抱くのも当然と思います。

しかし、新聞各紙は何を思って、これをわざわざ記事に(しかも一部新聞では一面トップ記事に)したかと言うことです。世間一般に非難されるべきだ、警察は責任を取るべきだ、とでも考えたのでしょうか。

 

ここで一応、報道からわかる範囲のことを述べてみます。

事故は4月12日の午後1時ころに起きました。その日の午後6時ころから、京都府警の署長ら幹部が集まる懇親会がありました。これに誰が出席して飲酒していたかというと、以下のとおりです。

京都府警全体のトップである京都府警本部長は、懇親会に出席しています。

事故現場の所轄は東山警察署で、そこの署長は、出席を辞退したそうです。

東山警察署の交通部長は、出席しました。

東山警察署のヒラの刑事さんたちは、そもそも懇親会に呼ばれていないので、当然、出席していません。事故現場の見分や、事情聴取などに当たっていたでしょう。

府警のトップと、交通事故担当の部長が酒を飲んでいた、と批判されているわけですが、所轄の署長は署にいて、必要なら捜査の指揮ができたのでしょうし、現場の刑事も普通に捜査していたわけです。

 

交通部長の仕事は私もよく存じませんが、おそらく、事故直後には初動の捜査を指示し、そのあとは現場の刑事に任せて、後日、事件を検察庁に送検する際に、上司として決済するのでしょう。この日の懇親会に出席することで交通部長としての仕事に支障が生じたとは思えないのです。

 

また、京都府警本部長が出席したことを批判する人は、各都道府県警トップは、その都道府県内に死亡事故が起こるたびに、その他の予定をキャンセルせよという考えなのでしょうか。

さらに、警察全体のトップである警察庁長官も、同様にすべきであったと考えるか。また警察を含めた行政全体のトップである内閣総理大臣はどうか。

警察庁長官や内閣総理大臣まで、当日は飲酒すべきでなかった、というのであれば極端にすぎる気がします。かと言って、京都府警本部長はダメだけど、警察庁長官や内閣総理大臣は良い、というのであれば、その違いは何なのか、どこで線引きをするのか、という問題が出てくる。

 

私としてももちろん、懇親会への出席はやめておいたほうが、なお望ましかったとは思っています。しかし、交通部長や府警本部長というだけで、具体的な職分などが明らかにされないまま、何となく批判されている気がして、そこが私として疑問に感じるところです。

「老害」というものについて思ったこと

私たち弁護士は、日本弁護士連合会(日弁連)という組織に所属しております。

社会的関心の高い事柄について、日弁連が意見書を出したとか、日弁連の会長が声明を出したとかいう話は、何となく聞かれたことがあると思います。

最近では、先日、久しぶりに死刑が執行されたことについて、日弁連会長が、これに抗議するとともに死刑の執行停止を求める声明を出しました。

 

死刑制度の是非について論じるのは、ここでの本題ではありません。

ただ、そういった声明を聞いて、「弁護士はみな死刑廃止論者である」と思っている方も、少なくはないのでしょう。

個人の価値観や、思想信条の自由を重んじるはずの弁護士の団体が、どうして、ある事件に対して特定の立場(死刑廃止など)からのコメントを出すのだろうと、私は疑問に思っています。

もっとも、日弁連や会長がそういった意見や声明を出す際には、日弁連の規則に則って、然るべく議事を開いて決議をしていると思うので、まあ勝手にしてくれたらよいか、とも思います。

幸い、個々の弁護士に実害があるわけでもありません。たとえば「どうしても弁護士に依頼したい事件が起こったけど、日弁連が死刑反対と言ってるのはケシカランから、弁護士に依頼するのはやめた」などと言う人は、見たことがありません。したがって、日弁連のお偉いさんの言うことは放っておこう、というスタンスでおります。


と、長い前置きですが、私が書きたかったのは、鳩山元総理が、核開発疑惑を受けているイランに単身乗り込んだという失態についてです。

 

事前に予想されたとおり、イランは「鳩山はIAEA(国際原子力機関)に批判的であり、イランの立場を理解してくれた」と喧伝しました。

彼が実際にイランで何を言ったかは知りません。しかし彼は日本の国会議員であり、元総理大臣である(しかも恥ずかしいことに、かつて多くの日本国民が民主党を熱狂的に支持した結果、総理になった)。したがって、彼の言ったことは日本の言ったことだと理解されるでしょう。

私は別に、イランが悪者でIAEAが正しい、と単純に言いきれないとは思っていますが、各国と協力して核軍縮を進めるべき日本の立場として、イラン寄りの姿勢を示すことで国際的な信用をなくすことは否定できないと思います。

 

弁護士なら、日弁連の一部の年寄りの言うことについて、「あれは私の考え方とは違います」と言えば済みます。しかし、日本の元総理大臣が言ったことについて、私たち一人ひとりが「日本人は別にイランの肩を持ってるわけではないんですよ」と叫んだとしても、世界の大多数の人はそう見ない。

民主党政権は衆院の任期を一回終えないうちから、早くも「老害」が生じているのです。年寄りのたわごと、と言ってすまない老害です。