心中と自殺教唆 2

前回の続き。
自殺教唆という犯罪をもう少し詳しく述べると、「死ぬようにそそのかすこと」、もう少しきちんと言えば「自殺の決意を生じさせること」を言います。

ですから、たとえば他人に「死ね」と言うだけでは、自殺教唆にならないでしょう。人から死ねと言われただけで「よし、死のう」と思う人は、まずいないからです。

前回触れた事件の女性容疑者は、男性に「自分から死のうと持ちかけた」と言っているそうです。詳しい経緯は書かれていませんが、二人の心中、情死が想像されます。

恋愛関係にある二人が、様々な事情でその恋が結ばれぬため、あの世で一緒になろうと死を決意することは充分ありうる話で、したがってそれを持ちかけるのは自殺教唆にあたるでしょう。

さらに、相手がうとましくなって、心中と見せかけて相手を死なせるようなケースも実際にあります。
実際の判例を紹介します。比較的有名な事件で、刑法の教科書には必ず出てきます。

ある男性が、愛人の女性に別れ話を持ちかけたところ、女性は納得しなかったため、男性はいっそ心中しようかと言い、女性はそれに応じた。しかし男性は途中で死ぬ気がなくなり、用意した毒物(青酸ソーダ)を、「僕もあとから行くから」とウソを言って女性にだけ飲ませ、女性は死亡、自分は生き残った…という事案です。

最高裁(昭和33年11月21日)は、この男性を、自殺教唆ではなく、単なる殺人罪であると判決しました。
女性は騙されて死ぬ気になったのであって、本当のこと(男性が一緒に死ぬ気でないこと)を死っていれば死んでいなかった。本来は死ぬ気でなかった人を死なせるのは単なる殺人である、ということです。

今回の二色の浜の事件では、警察は容疑者の女性を自殺教唆で逮捕しましたが、おそらく殺人罪の適用も念頭に置いていることでしょう。死亡した男性と入水するに至る経緯や、女性だけがなぜ助かったのかということが、今後も捜査されることと思います。

心中が美しいのは「曽根崎心中」など、お話の中だけであって、実際には、持ちかければ犯罪、死ねば無駄死にという、つまらないものです。亡くなった男性は哀れでなりませんが、そんなことに付き合うべきではなかったのです。

心中と自殺教唆 1

小さい記事ですが、入水自殺のニュースがありました。
大阪で、20歳の女性が、交際相手の男性(31歳)に心中しようと持ちかけて海(二色の浜)へ一緒に入り、男性は水死、女性は助かったそうです。

入水自殺と言いますと、私が思い出すのは安徳天皇です。
来年の大河ドラマが平清盛ですから、きっとこの話が出るのでしょうけど、平清盛の娘の徳子(建礼門院)が高倉天皇に嫁いで生まれたのが安徳天皇です。

源氏の挙兵後は平家にかつがれて都落ちし、壇ノ浦の戦いで平家が滅びるとき、安徳天皇は母ら平家一門と共に海に飛び込みます。
安徳天皇はわずか8歳で亡くなり、母の建礼門院は源氏の手によって海から引き上げられ、あとは尼僧となって余生を送ります。

冒頭のニュースでも女性が生き残ったというので、安徳天皇と建礼門院みたいな話かと思っていたら、生き残った女性は、「自分が死のうと持ちかけた」そして「気が付いたら自分だけ砂浜で倒れていた」と言っているそうです。

誰しも「え?」と思う話でしょう。
二色の浜といえば、夏になれば南大阪の人間が海水浴やバーベキューに来るところで、壇ノ浦みたいな海峡の荒海でなく、穏やかな海のはずですが、それでも沖へ行けば31歳の男性を溺死させるのです。女性だけが波にのまれずに岸に押し戻されたというのも不自然ですし、建礼門院みたいに誰かに助けられたというわけでもない(それなら救助した人が通報しているでしょう)。

事実関係の詳細も知らず、かつ弁護士の私がこんなことを言うのも気がひけますが、どうしても「偽装心中か」と疑わざるをえない。つまり心中を装って誰かを殺すというわけです。
そして大阪府警は、この女性を「自殺教唆罪」で逮捕したそうです。

他人に自殺するようそそのかしたり(自殺教唆)、他人が自殺しようとしているのを手伝ったりする(自殺幇助)と、7年以下の懲役とされています(刑法202条)。
ついでに、同じ202条には、嘱託殺人罪が定められています。他人に頼まれたのでその人を殺すというものです(罪の重さは同じ)。

これらは、他人が死にたいと思っている場合であっても、その生命をあやめることは許されるものではない、という意味で犯罪とされているのです。

ちなみに、嘱託殺人罪のほうで思い出すのは、渡辺淳一の「愛の流刑地」で、これは主人公が愛人との情交中、愛人が「首をしめて」と言うので、首をしめての性行為中に愛人が死んでしまったという話でした。弁護側は嘱託殺人を主張しましたが、より重い殺人罪が適用されました。小説・映画の中の話ですが。

では、今回の二色の浜の事件は、自殺教唆になるのか、または単純な殺人ではないのか、そのあたりの話は次回に続きます。

国歌斉唱時の起立を義務づける条例の合憲性は 4(完)

国歌斉唱時の起立を義務付ける条例について書こうとしていたら、ちょうど最高裁がこの問題に決着をつけました。

起立を義務づけることは思想良心の自由に反するものでないとして、起立を拒否したことなどを理由に再雇用を拒否された元教師の訴えを退けた(5月30日)。

私がこれまでに書いてきた理屈は、単純化すると以下のようなものです。

たしかに一定の行為を強制することが、その人の思想や信条の核心を侵すようなものであれば、そのような強制は許されるべきではない。
起立しない人は、国旗・国歌がかつての軍国主義の象徴であり、平和主義の理念に反すると言うが、そういう人々が本当に平和主義のための活動をしているかは極めて疑問で、真の平和主義の理念に基づくものとは考えられない。単に立ちたくないだけの人を立たせたところで、その人の思想信条を侵すものでない、と。

最高裁の理屈は、いっそうシンプルです。これもずいぶん単純化しますが、
国旗・国歌が軍国主義の象徴だと考えるのは自由であるが、式典のときに起立するのは単なる儀式である。儀式に従わせてもその人の思想信条を侵したことにならない、ということです。

たしかに、たとえば私の実家は浄土真宗ですが、友達の結婚式に行ったら、ホテルのチャペルでみんな立って主イエスのための讃美歌を歌わされたりします。
これをもって、「私の家は仏教なのにキリスト教に宗旨変えさせるのか」と思う人はいないでしょうし、仏教徒だからと言って歌わず座ったままでいるのも、周囲の人の気分を害するでしょう。

どうしても讃美歌を歌うのがイヤなら、結婚式に出なければよいのであって、儀式に出ておきながら儀式の約束に従わないという行動は、とうてい合理的なものでないと思います。

(さらに言えば、国歌斉唱時に起立しない人は、ご自身やその子供がチャペルで結婚したとして、一部の人がそのような行動をとったとしたら、「おぉ素晴らしい、信教の自由だ」とでも思うのでしょうか)

ということで、長々と書きましたがこの問題についての考察をひとまず終了します。

国歌斉唱時の起立を義務づける条例の合憲性は 3

前回の続き。
国歌斉唱時に起立しない人というのは、平和主義うんぬんではなく、単に権威・権力が嫌いなのであろうと、そういう話をしました。

もちろん、それも思想信条として自由なのは間違いありません。
「別に私は砲弾が飛んでくるような場所で世界平和を訴えたいと考えているわけではない。ただ自分の身が安全なところで、反権力の姿勢を示したいのだ」という人がいたとして、そう思うこと自体は構わない。

しかし、その程度の思想しか持たない人であれば、式典における秩序のほうを重視して、起立することを強制することは許容されると思います。

学校の式典以外では、それを正面から認める法令がすでに存在します。
私たちの商売になじみの深い、裁判の場面がそうです。たとえば民事訴訟法では、法廷で証人として証言する人は、最初に「ウソをつきません」という宣誓をさせられます。民事訴訟規則によると、宣誓は起立して厳粛に行なう、と定められています。
宣誓を拒否すると、10万円以下の罰金が科せられることがあります。

かように、世の中には「起立して然るべき状況」というものがあって、それを法令で強制することも、許容されているのです。

ちなみに、裁判所で法廷が開かれるときや、宣誓する証人が起立するのはなぜかと言いますと、それは決して、裁判官サマに対する礼儀などではない。これからこの法廷で人が人を裁くという、厳粛な事実を前に、起立するのです。

起立して頭を下げる理由は、裁判官サマがエライからではなく、そこで裁かれる人に対する礼儀であり、そこで行なわれる正義に対する敬意なのです。

同じように、学校の卒業式などで児童やその保護者が、国歌や校歌を斉唱する際に起立するのはなぜかといえば、それは国や学校のエライさんに対する礼儀などではない。
公教育の場で、児童生徒たちが教師たちから教育を受け成長することができたという、その事実に対して起立と礼をするわけです。

児童生徒の保護者の多くは、たぶんそう考えるのであり、だからこそ学校での式典に厳粛な気分で臨むわけです。そういう人たちが全員起立している前で、一部の教師が座ったままというのは、多くの人たちにとって不快感を与えるはずです。

そんなわけで私は、「権威的なものがイヤ」という程度の思想信条で起立を拒否する人に対しては、刑罰を背景に起立を強制しても構わない、だから合憲だと思うのです。