国歌斉唱時の起立を義務づける条例の合憲性は 2

国歌斉唱時の起立を義務づける大阪府の条例案について、前回、私は賛成の立場にあると述べました。その理由などについて思いつくままに書いてみます。

もちろん、この手のことは法律や条例で強制される筋合いのものでないと思います。しかし、教育現場では厳粛たるべき式典などで起立しない教師がいて、それが式典をあまりにだらしなくしているのでしょう。

私の息子はまだ2歳ですが、いずれは学校へ行く。入学式や卒業式での国歌斉唱のとき、息子が起立して元気よく歌い、私たち保護者も起立してそれを見守っている中で、一部の教師が座ったままであれば、極めて不快に思うでしょう。
そして息子にもし、「あの先生はなんで座ったままなの? 立ちたくないときは立たなくていいの?」と聞かれたら、私には答えるべき言葉が思い浮かびません。

私個人の感想はともかく、憲法上の議論として述べますと、
個人の思想信条は完全に自由であるべきだが、それが「行動」を伴う場合は無制限に自由ではありえないとされます(たとえば宗教の違いを理由に他人を殺すことは許されない)。
しかし、個人の行動を規制することが、その人の「思想信条の核心」を侵害するような場合は、そのような規制はあってはならないとされています。

国歌斉唱時に起立しない人の「思想信条の核心」が何なのか、私には理解できません。
たとえば、日本の国旗・国歌は戦前、そのもとに他国を侵略した軍国主義の象徴だから、とうてい敬意を払えない、と言う人もいるようです。

しかし、イギリスやフランスも、帝国主義の先進国として、国旗・国歌の下にずいぶん他国を侵略しており、占領した国の数は日本の比ではないはずです。アメリカなどは今でもたまによくわからない戦争をする。
これらの国でも、式典では起立して国歌を斉唱するはずですが、これも「軍国主義」なのでしょうか。だとしたら、早期の英語教育について「軍国主義だからハンターイ!」という教師がいてもよさそうに思えます。

その他にも、世の中には今でも人権や国際平和を乱す事件が相次いでいますが、「国歌斉唱時には座る」という行動によって「平和のための戦い」を繰り広げている教師の方々は、それらの事件に対してどんな行動をしておられるのか。
 たとえば昨年、北朝鮮が韓国を砲撃したとき、北緯38度線にでも座って、北に向かって「国際平和を守れ!」とでも叫んだのかというと、そんな教師がいるとは聞いたことがない。

結局、国旗や国歌が嫌いという人たちの「思想信条の核心」というのは、真の平和主義の理念といったものではなくて、単に、権威や権力が嫌いで、そういうものに立たされるのが嫌いというだけのことであろうとしか思えないのです。

長くなってきたので、次回に続く。

国歌斉唱時の起立を義務づける条例の合憲性は 1

大阪府で、橋下知事主導のもと、公立学校の式典での国歌斉唱のときに、起立することを義務づける条例が制定されようとしています。

橋下知事率いる「大阪維新の会」が府議会で過半数を取っているので、この条例は可決されることになるでしょう。この条例の当否について触れます。

と言いながら、いきなり話がそれますが、私は先日の地方選挙のとき、「大阪維新の会」の候補者には投票しないようにしました。その理由は2つです。

一つめは、自らの行動を「明治維新」に安易になぞらえ、やたら維新を唱える人たちを、私はあまり信用できないということです。

これは全く私ごとなのですが、私の祖先にあたる土佐藩主の山内容堂は、幕末、天皇家と幕府(徳川家)が一致協力して国難に対処すべきであるという、いわば穏当な改革論を主張しました。しかし、維新の立役者である西郷隆盛は倒幕を主張し、「あんなやつ(山内)は短刀一本持ってきて黙らせろ」(つまり「刺してしまえ」)と言ったそうです。

明治維新はこのように、恫喝半分で成り立ったものであって、到底、現代において行なわれるべきような性質のものでもないし、現代の政治家が手本にしてはならないと思うのです。

もう一つの理由は、これは「大阪維新の会」に限らず一般論として思うのですが、
実力が未知数で評価も定まっていないけど人気だけは高いような新政党に、あまり大きな権力を与えるべきではないと思うからです。

ちなみに、同じ理由で、民主党が政権交代を果たした平成21年8月の総選挙でも、私は民主党の候補には票を入れませんでした(政権交代後の民主党の体たらくを見ていて、その判断は正しかったと思っています)。

私のよく知る人が何人か、「大阪維新の会」から市会議員になっておられて、そういう個々の議員先生方は応援したいとは思うのですが、正直なところ、「大阪維新の会」なるものは、未だによく分からない団体であるとの印象しか持ちえません。

と、不必要に前置きが長くなりましたが、国歌斉唱時の起立を条例で義務づけることについては、私は賛成の立場にあります。
そのあたりの話は次回以降に続く

謝罪しながら裁判で争うことは不誠実か

10日ほど、更新が空いてしまいました。

この間は、刑事事件で注目の判決が多く、漁船と衝突したイージス艦「あたご」の士官に無罪判決、舞鶴女子高生殺害事件で無期懲役判決、布川事件の再審で無罪判決が出ました。いずれも興味をひく、かつ重大事件であり、いずれ触れたいと思います。

刑事事件以外では、うちの2歳の息子が地元の幼稚園の体験入園で大はしゃぎしたことが個人的に興味をひかれましたが、ここで触れる予定はありません。

刑事事件といえば、25日には、JR福知山線脱線事故の裁判で、起訴されたJR西日本の前社長の尋問が行なわれました。
前社長は一貫して無罪を主張しており、「事故の危険性は認識できなかった」と証言したそうです。遺族の憤りのコメントが新聞などで紹介されていました。

この手の裁判のように、道義的にはいくらでも謝罪したいが、刑事責任を追及されるとなると争わざるをえない、ということはよくあります。特にこの事件は、非常に大きな問題を含んでいるので、前社長にはきっちりと争ってもらい、裁判所に慎重に判断してもらわないと困るのです。

それは、以前にも書きましたが、企業が事故を起こしたとき、その企業が賠償金を出すというだけでなく、経営者個人が刑務所に行かないといけないのか、ということです。そういう判例ができてしまうと、「怖くて人など雇っていられない」と考える経営者が増え、雇用はとんでもなく悪化するでしょう。

今日は話がころころ変わりますが、数日前、東京在住の男性が、原発事故で精神的苦痛を受けたとして、東電に10万円の慰謝料を請求する民事裁判を起こしたというニュースを聞きました。

この裁判、東電とその代理人弁護士は、当面は全面的に争っていくはずです。10万円分の精神的苦痛などは本人の主観的なものに過ぎないとか、原子力損害賠償法では異常に大きな災害について賠償責任を負わないなどと主張するでしょう。

そういった主張を見れば、東電の社長は被災地で土下座してまわっているのに、裁判で争ってくるとは二枚舌じゃないか、と感じる向きもあるかも知れません。

しかし、もし東電が、慰謝料の請求に対して、ただちに「あなたの主張はその通りでございます」などと答弁してしまうと、その時点で東電の敗訴が決まります。そうなると東電は、請求どおりに賠償金を払わないといけない。同じことを多くの人が行なえば、東電はたちまち破産状態になり、それまでに裁判を起こしていなかった人には一切の賠償が与えられないことになりかねない。

東電としては、個別の裁判については争っておいて、その過程で政治的に決着が図られ、すべての被害者に公平な賠償を行なう仕組みができれば、争うことをやめて賠償に応じることになるのでしょう。

JR西日本も東電も、申し訳ないとは思っているけど、裁判を起こされれば争わざるをえない。
「あんなひどいことをしながら、争ってくるとはケシカラン」などと考えるのは、裁判とは悪人をつるし上げて平伏させるものだという、前近代的な捉え方をしていることの表れです。法的責任とはもっと冷静で厳密に検討されるべきなのです。

子供を連れ帰って約5億円請求された母親の話 2

 (前回のあらすじ)
アメリカ人のクリストファーは、子供を日本に連れ帰った元妻のマキコに賠償を求め、テネシー州の裁判所は約5億円の支払いをマキコに命じた。

…とはいえ、この判決はあくまでアメリカの裁判所が出したものなので、アメリカ国内だけで通用します。だからマキコさんは、日本において実際に5億円近いお金を取りたてられたり、財産を差し押さえられたりすることはありません。

外国の裁判日本国内で通用できるようにするためには、日本の裁判所で「承認」という裁判手続きの一種を経なければなりませんが、日本の裁判所は決して、この判決を承認しないでしょう。

さて、以前にも書きましたが(こちら)、
「ハーグ条約」では、国際間の離婚でも「共同親権」つまり父母両方が親権を持つとして、子供をどちらが引き取るかもめた場合は裁判所が決める、それまでは元々住んでいた環境に置いておく、と決められています。

それによれば今回のケースでも、子供が生まれたアメリカで、裁判の結果を待たなければならなかったでしょう。子供が何歳かは新聞記事に出ていませんが、乳飲み子であったとすれば、子供がかわいそうであるように思われます。

欧米諸国は日本にハーグ条約を締結するよう求めています。非常に微妙な問題であり、私も専門的に調べたわけではないですが、個人的には反対です。

条約を締結する以上は、それに基づき国内の法律も整備され、今回のようなケースについて何らかの罰則が定められることになるかも知れない。

罰則がなくとも、このマキコさんには「条約や法律に反した行動を取った者」という評価が与えられることとなります。アメリカみたいに何億もの賠償が命じられることはないでしょうけど、マキコさんは「違法」なことをしている以上、何らかの賠償に応じざるをえなくなるでしょう。果たしてそれが妥当かどうか。

最近みたネット上のニュースでは、菅内閣は条約締結に向けて調整を行なう旨、閣議決定したようです。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に加入するかどうかという重大問題すら、震災への対応で棚上げにしているのに、こちらだけ拙速に進めていってよいのかという危惧感を持ちます。

もちろん、条約締結は内閣だけでできず、国会での承認が必要です。その過程で、幼い子供のために何が一番望ましいのか、きちんと議論されることを望みます。

子供を連れ帰って約5億円請求された母親の話 1

あまり報道されていないようですが、日経(10日夕刊)の小さい記事から。
アメリカから子供を連れ帰った日本人の元妻に対し、アメリカの裁判所が、610万ドル(4億8900万円)の支払を命じる判決を出したそうです。

事実関係があまり書かれていないので、一部推測を交えて整理します。

クリストファーさんというアメリカ人の男性が、マキコさん(仮名です。新聞に名前は出ていなかったので、私の妻の名前を勝手に借用)という日本人女性と結婚し、アメリカで子供2人をもうけた。

その後、2人は離婚することとなり、子供はマキコさんが引き取ることとして、ただクリストファーさんには定期的に面会させるという約束をした。

マキコさんは子供2人と日本に帰り、福岡で暮らしました。クリストファーさんと子供が面会する約束は、日米の距離のせいか、他の理由があったのか、次第に果たされなくなった。

そうした中で、クリストファーさんは2年前、福岡にきて子供をアメリカに連れて帰ろうとし、誘拐容疑で逮捕されたこともあったようです。なお、日本の刑法の解釈としては、いかに実の父親でも、母が引き取って暮らしている子供を勝手に連れ帰ろうとすると、誘拐罪にあたります(その後、不起訴で釈放)。

クリストファーさんはアメリカのテネシー州に帰って裁判を起こしました。結果が、冒頭の判決です。判決の理由は、マキコさんが子供と面会させる約束を果たしていないから、ということのようです。

日本人の多くは、この判決を聞いて、「はあ?」と思うでしょう。
日本国内において子供の親権を有する母親が、子供と父親を会わせるのは妥当でないと判断して、父親との面会を拒否したら、何億もの賠償を命じられないといけないのか。

欧米では離婚後も両親に親権があるとされる国が多いので、こういう判決も出るわけです。またアメリカでは、賠償金の相場が日本とは全く異なるということもあるでしょう。

では果たして、マキコさんは何億円ものお金をクリストファーさんに支払わなければならなくなるのでしょうか?
…続く。

原発停止、法律家の限界と政治家の役割

唐突な話ですが、我々弁護士は、問題ごとを抱えた人から相談されたとき、その事件や事実に適用できる法律の条文を探してきて、それをあてはめ、勝ちか負けか、適法か違法か、有罪か無罪かを判断します。

日本のような法治国家であれば、世の中のたいていの問題には、あてはめることのできる法律が存在しています。

つい先日、自宅で夜のニュースを見ていたら、菅総理が画面に出ていて、「中部電力の浜岡原発を停止する」と言いました。私は、何だかエライことになったなと思いつつも、あとで、総理大臣が原子力発電所を停止できるという根拠条文を調べてみようと思いました。

ちなみに、原発を設置するにあたっては、総理大臣の許可が必要です。いま、移動中の新幹線の中で書いているため手元に資料がないのですが、原子力関連の法律にそう定められていたはずです。
街なかで食べ物屋さんをやる際には保健所の許可が必要ですが、原発みたいに大変なものを置くからには、行政のトップである総理大臣の決裁が要るわけです。

許可を得た食べ物屋さんでも、今般ユッケで食中毒を出して問題になった焼肉屋みたいに、衛生上ふさわしくないと認められた場合は、営業停止や、許可の取消しといった処分が行なわれます。これらも、すべて法律に規定があります。

同様に、原発を停止するにも、どういうときにどういう手続きでそれを命じることができるか、きちんと法律に書かれてあるのだろう、と思っていました。
ところが、新聞報道などを見ていますと、菅総理の要請は「法的な根拠のない」(本日の日経朝刊など)ものなのだそうです。つまり、「まあ、ここはひとつ、止めてくれんかね」と「お願い」しているに過ぎないのです。

たしかに、法律に書いていなくても、多数の利害を調整したり、問題を未然に防いだりするために積極的に動いていくのが政治の役割だと思うので、今回のようなやり方も政治的判断としてはありうるものだとは思います。

ただ実際には、東日本大震災に関して、全くリーダーシップを発揮してこなかった菅総理が、浜岡原発の停止に限ってリーダーシップを示したとは考え難い(もし本当に菅総理が独断で決めたのだとしたら、これほど大きい問題を突然独断で決めたこと自体、責められるべきです)。

おそらく、経済産業省や原子力保安院の官僚の進言があって、それを受け入れたのであろうと推測しています。民主党は「政治主導」だと言いつつ、誰も何も政治的判断ができず、官僚に利用されていることになります。

話がまとまりませんが、今回の菅総理の要請(そしてその背後にあるであろう官僚の要請)が妥当なものであったのか否か、私には判断する材料がありません。それは、過去に起こった事件に法律をあてはめるのが主な仕事である弁護士の限界であり、将来に向けてどのような政策を取るべきかは、法律をいくら参照しても答えがないのです。

せめて菅総理には、今回の要請に至ったプロセスと、今後やろうとしていることをきちんと説明し、後世の私たちが「あのときの判断は正しかったのか否か」を検討するに足る材料を与えてほしいと思っています。それも政治の役割であるはずです。