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「いろいろとありがとうございました、先生」
今朝、傷害致死事件の被告人に判決が下った。懲役5年。
判決が出たあと、裁判所の地下の面会室で、彼と顔を合わせた。
「最後まで保釈はされませんでしたね。何もしてあげることができずに申し訳ない」
「いや、先生が本当に私の言うことを信じてくれて、保釈とか勾留執行停止とか、親身になって動いてくれた。それで充分、私は救われましたよ」
彼は爽やかな顔つきで続けた。
「私が捕まった直後に警察署に面会にきた当番弁護士の先生はね、保釈なんて無理だ、どうしようもないって、にべもなく言ったんですよ。でも先生のおかげで、私にも味方がいるんだって実感しました。結果は受け入れます。遺骨は、刑務所に持っていきますよ」
面会室を出た。彼が愛人を葬りたいといったのは、方便でなく本心だったのかも知れないと思った。
その夜、僕は難波から南海電車に乗って、堺・中百舌鳥へ向かっていた。
中百舌鳥駅から線路に沿って歩き、バー「ウイスキーキャット」の扉を開ける。
「あ、お久しぶりです!」
と元気な声をかけてくれたのは、かつてミナミで「洋酒壽屋」のマスターをしていた大谷さんだ。店を移転してから、初めてここを訪れたのだ。
「偶然ですねぇ。もしかしたらあの人を追いかけてきたんですか?」
と、やけに笑顔をみせて、マスターが言った。
不審に思って店内を見渡すと、カウンターの奥に女性が一人座っている。
――あの女性・・スリー・マティーニの女が。
こちらに顔を向け微笑んでいる彼女と目が合う。僕は思わず、口走っていた。
「あの、そちら、隣に座っても構いませんか?」
「ええ、どうぞ」
バーにしてはやけに広い空間を、僕は歩いていく。そして彼女の隣に腰を下ろす。
「マルガリータを」
彼女の隣に腰を落ち着けて、マスターが満を持して作り上げたであろうバックバーと、そこに並ぶウイスキーのボトルを眺め渡す。横目に彼女の手元を見ると、やはりマティーニを飲んでいる。
「偶然ですねえ。バーなんて無数にあるのに、お会いするのはこれで三度めです。ミナミで、キタで、そして堺でも。世の中は狭いなあ」
僕のつぶやきに、彼女は答えた。
「偶然? いえ、きっと必然だと思いますわ。人それぞれ、どんなところでお酒を飲むか、好みや傾向は決まっていると思うの。だから、1つのバーで会う人とは、きっとまた別のバーでも会うものよ」
彼女はマティーニを飲み干し、グラスを掲げた。
「私は、『ミドリ・マルガリータ』をお願いします」
テキーラにメロン・リキュールの「ミドリ」を加えたカクテルだ。
「珍しいオーダーをされるんですね」
「ええ、『ミドリ』が好きなんですよ、私。マティーニも好きだけど、ミドリ・マルガリータの甘い香りも好き」
彼女はかつて、彼氏に振られたのがきっかけで、ミナミのバーに一人でくるようになったと言っていた。あれから1年と少しが経つが、近況を尋ねてみたら、仕事の上でも、プライベートでも、特に変わりはないらしい。
「ね、何の変化も進歩もないでしょ、私」
「僕も似たようなもんです。初めてお会いしたときから、似たような毎日で」
「でも、あなたがこうしてお酒を飲んでる横顔、あのころよりもっといい顔になったと思いますわ。変わらない日々に思えても、きっと何かが変わっているんだと思います」
「それはどうも・・あなたの横顔も、綺麗になりましたよ」
しばしの会話のあと、彼女はもう、グラスを空けて発とうとしている。いきなりここで誘うのも何だか気が引けて、僕は彼女に言っていた。
「先ほどの、人それぞれ、通うバーの傾向は決まってるって話。たしかにそう思います。だからあなたとは、またすぐどこかでお会いしそうに思います。僕は賭けをします。1か月以内にミナミのバーで会えたら、そのときは一晩だけでも、付き合ってくださいませんか。どこかまた、素敵なバーに案内したいんです」
「ええ、いいですよ、ぜひ。もし逢えたら」
「それから、そのときには、あなたの名前をお聞きしたいです」
「名前ですか、あら、私はさっき、何度も名乗りましたわ」
「え?」
彼女は席を立って、扉を出る前に振り向いた。
「あなたの名前も私、まだ教えていただいていないままですしね。まあでも、それは今度お会いしたときに」
彼女が去ったあと、マスターがにやにやしながら僕を見ている。
「そうですよ、失礼ですよ、あの方はさっき、何度も名乗っておられました」
釈然とせずに首を傾げる僕に、続けて言う。
「これですよ、これ」
と、カウンターの上に出されていた緑色のボトルを僕の前に置いてみせた。
「ああ、『ミドリ』か・・」
帰りの南海電車の中で一人揺られていた。
この1年と少しの間、いろんな酒場をめぐってきた。いろんな人に出会ったり、また別れたりした。それが今の自分にとって何らかの意味を持っているのかと問われれば、特に意味はないのかも知れない。しかし、バーでああして酒と向き合う時間がなかったとしたら、僕の日常はもっと殺伐としたものになっていたに違いない。
バーとお酒、そしてそこで出会う人々が、僕の無形の支えになっていた。
今朝の被告人との話を思い出している。僕の努力によって結論が良い方に変わったのかどうかはわからない。でも僕が彼を信じて行動することで、彼は救われたと言っていた。
大きな事件で勝訴して派手な成果を獲得することなんか、稀にしかないのだろう。でも、自分の小さな力が、誰かの何らかの救いになっているのだとしたら、僕はやはり、その何らかのために、常に力を尽くしていきたいと思う。
目に見えた日常の変化はなくても、そんな日々を積み重ねていくことが大切なのだと思う。
電車は終点・難波駅に近づいてきた。周りの風景がにぎやかになってきた。
明日からも、いろんな事件が僕を待っているのだろう。
そして心がすさんできたら、僕はまたきっと、この大阪ミナミで、バーの扉を開けるのだろう。 |
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373−2S 了
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