 |
「どうしても、保釈してもらいたいのです」
久々の刑事事件だった。
傷害致死事件の国選弁護人に選任され、大阪拘置所でその被告人と初めて面会した。
「傷害致死は重罪ですし、あなたには前科がある。保釈はまず無理と思いますよ」
「分かっています。ですが、なんとしても、外に出たいわけがあるんです」
彼が話したところによると――愛人が1年前に自殺した。身寄りのない女性だったので、その遺骨を彼が預かっている。彼にも頼るべき人がないので、その遺骨を持ったまま、拘置所まで来ている、とのことだった。
「自分は実刑で、長く出てこれないのはわかっています。だからこそ、この人の供養を済ませておきたいのです。そうでないと、安心して刑務所に行けないんです」
拘置所の保管庫に、その遺骨が眠っているのだろうか。
週末の夜だった。宗右衛門町のバー「マスダ」の扉を開けた。
奥に細長く、フロアがのびている。多くの客の背中を通り越して、カウンターの一番奥の席につく。
宗右衛門町通りからドア越しに見るとわからないが、ここのバックバーはとてもきらびやかだ。
「マルガリータをお願いします」
いつもどおりにこやかにオーダーを待つマスターの増田さんに伝えた。
アメリカのバーテンダーが、事故死した恋人への想いを込めて創作したカクテルだと聞く。
久しぶりにこれをオーダーしたのは、昼間に面会した被告人の話が頭に残っているせいかも知れない。
カウンターの向こうの狭いスペースを、マスターと、バーテンドレスが忙しく行き交っている。
マルガリータのグラスを空けて、さて次はマティーニでも、と考えながら、誰かの手が空くのを待っていたところで、バーテンドレスと目があった。彼女がこちらに近づいてくる。
――マティーニを
言おうとしたその前に、彼女が僕にグラスを差し出しながら言った。
「マティーニです」
驚いた僕の表情を見て、彼女は僕に言った。
「あちらの女性からです」
カウンターの一番向こう、入り口近くの席で、こちらを向いてカクテルグラスを傾ける女性がいた。
「あっ・・」
――あの女性だ・・『スリー・マティーニの女』・・
かつてミナミのバーで1回、北新地のバーで1回だけ出会った、マティーニ好きの女性。僕は彼女の名前をまだ知らず、心の中で『スリー・マティーニの女』と呼んでいる。彼女に出会うのは、1年ぶりくらいだろうか。
密かに好意を寄せている女性とバーで出会ったときに、男はどうすべきか。僕にはその答えがまだわからない。
とにかくグラスを取って、ぎこちなく微笑みながら、同じようにマティーニを掲げてみた。
視界の隅で、マスターと彼女が話していた。今夜も、一人で来ているらしい。
お久しぶりです、ごちそうさまでした、それだけでも伝えよう。そう思っているうちに、彼女はすでに勘定を済ませているようだ。それを見ている僕と目があう。
――お先に、と彼女の唇が動いた。
こんな場合はきっと、その人の後を追いかけるべきではないのだろう。
その人が一人で過ごす時間を、壊すべきではない。
僕はカウンターに再び腰を落ち着けて、マティーニと向き合った。
バーテンドレスが悪戯っぽく微笑みながら、僕のほうを見ている。
「お知り合いの方ですか」
「ええ、ちょっとした知り合いです。名前は知らないのですけど」
彼女と縁があるのならば、また会う機会もあるだろう。
僕は、まだ2杯目だとは信じられないような速さで回っていく酔いを感じながら、マティーニグラスを傾けていた。 |
|
つづく...
|
|
 |