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「原判決を破棄する。被控訴人は控訴人に、金6820万2412円を・・」
医療過誤訴訟の控訴審の判決言渡しの朝、僕は法廷で、壇上の裁判長が判決主文を読み上げるのを、呆然と聞いていた。
・・逆転勝訴判決だ。
傍聴席の依頼者がけげんな顔で僕の顔を見ているのに気づき、僕はそちらに向かって頷いた。勝訴したことに、ようやく気づいたらしく、「あっ・・」と声をあげていた。
「先生! やりましたね!」
裁判所の廊下で、依頼者は興奮した様子を抑えきれない。
「とりあえず、行きましょう」
僕は依頼者の肩越しに、被告の医師が肩を落として去っていく姿を見ながら、できるだけ感情を抑えて言った。
その日の夕刊に、この判決が小さい記事になって載っていた。
喜んでいいことなのかどうかはわからない。あの医師にも恨みはない。
でも、今日の判決によって、この病院は今後、対応のため大騒動となることだろう。そんな判決を引き出したのは、実感はないが、この自分なのだ。
これまでになかった手ごたえのようなものを、僕はぼんやり夕刊を眺めながら感じていた。
ここ3か月ほど、酒をほとんど飲んでいなかった。
妙な興奮を押さえたくて、僕は三津寺の隣のビルの奥、「bar亀甲」の扉を開けた。
扉の奥は、まっすぐのカウンター、その向こうが、煉瓦の壁に埋めこまれたバックバーにモルトウイスキーなどが並んでいる。
「お久しぶりですね」
「ええ、3か月ぶりくらいになりますか。実は禁酒してたんですよ」
「今も禁酒中ですか?」
「今日は一件ヤマを越えたので、一杯だけ、ラガブーリンの12年をソーダ割りで。これを飲んだら、またずっとお酒は控えます」
「亀甲」はマスターの本名だ。北新地で何年か修業をしたのち、この場所で開店した。
こんなミナミの真ん中で、この店とこのマスターは今夜もミナミらしからぬ姿で佇んでいる。
10日ほど前、エリからメールが送られてきていた。
「お元気ですか。ようやくこちらの仕事にも慣れてきました。最近、オーストラリアのワインに凝っています。日本には売っていないようなお酒もあって、楽しいですよ。
来週、研修のため少しだけ日本に戻ります。時間はあまりないのですが、もしお会いできるのなら、おみやげにお酒を買ってお渡ししたいです」
僕は今日、そのメールに返事を書いた。
「僕のほうの仕事は相変わらずです。でもたまには成果も挙げています。戻って来られるなら少しでも顔がみたいです。
ところでおみやげの件なのですが、実は、僕はもうお酒を飲まないことにしたんです」
僕はマスターに、ここしばらくのできごとを話していた。三ツ寺会館で椅子から転げ落ちて酒をやめる決意をしたこと、今日ちょっとした裁判に勝ったこと。
そして、エリとの出会いのこと。その女性は遠くに去ってしまったが、もうすぐ少しだけ会えることなど。
「では、その女性と一緒に、バーに飲みにいかれたりしないのですか?」
「ええ、お酒はもういいですよ。『川福』できつねうどんでも食べにいこうかなと思います」
グラスはとっくに空いていた。マスターが、新しいグラスに水を入れようとピッチャーを取り出した。
「じゃ、イエガーマイスターをロックで」
「あの、禁酒中じゃないんですか」
「イエガーマイスターはお酒じゃなくって、『薬』だと理解してますから」
マスターが含み笑いをしながら、緑色のボトルから酒を注ぐ。深みのあるハーブの香りが広がった。
久しぶりの酒が胃の腑に染みる。
「現場が好き」というエリの言葉を思い出していた。
嬉しいことも、辛いことも含めて、現場に身をさらしていればこそ感じる手ごたえもある。
彼女はそれを得るために、わざわざ外国へ渡った。
自分も、ときにイヤなことがあったりしながら、これからもたぶん今の仕事を続けるのだろうなと思った。
――その3日後、午後6時。
関西空港から、彼女は南海電車に乗って難波に来る。新しくできた「なんばパークス」をみたいという彼女を、僕はその2階広場の屋外ショッピングモールで待っていた。
ほどなく、広場の向こうに彼女が現れた。
彼女は僕を見つけると、手に持った筒のようなものをかざしてみせた。
お酒のボトルが梱包されているのだろう。お酒はやめたという僕のメールを、読んでいなかったのだろうか。
エリはこちらに向かって歩きながら、その中からボトルを取り出した。
・・広場の端と端の距離でも、そのラベルははっきりと、僕の目に焼きついた。
『LAGAVULIN 16』――ラガヴーリン16年!
父の思い出の酒。以前僕が話したことを、覚えていてくれたのだ。
彼女はそのボトルをちらちらと左右に振ってみせていた。その目が僕を挑発している。
―――もう、お酒は飲まないんだっけ?
僕は我知らず、大きくゆっくりと、首を振っていた。
日はまだ高く、彼女の頭上の空が青かった。
彼女に向かって駆け出したくなる衝動を、僕は必死にこらえていた。 |
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第5話 了
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