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「さようなら。あなたとの結婚、悪いことばかりじゃなかったわ」
僕の事務所に依頼者の夫がやってきて、離婚届にサインをして帰っていった。
あとは、妻がこれにサインをしてから役所に提出すれば、協議離婚が成立する。慰謝料の残額と養育費は、夫が今後月々払っていく約束となった。
「子供のために、がんばって生きていきます。私に経済力なんてほとんどないのに、大丈夫かどうか、不安ですけど」
「そんなのは問題じゃないですよ。あなたとお子さんとで一緒に生きていくこと自体が尊いんです。あなたのお子さんは、あなたのその小さな力を必要としているんです」
僕は書類を整理しながら、事務的に、励ましの言葉をかけていた。
「ありがとうございます! がんばっていきます」と依頼者が目を潤ませていた。
自分の力の小ささを呪う人には、その小さな力が必要なことを強調してやる。
僕はいつも事務作業のようなつもりで依頼者を励ましている。それによって依頼者が元気づけられるのなら、それでいいと思っている。
依頼者と接していて、ときどき、ミカのことを思い出すことがある。ミカも店ではいつも、こんな気持ちで、客と、そして僕と接しているのだろうか、と思ったりもする。
ミカが実家の鳥取へ帰る日だった。
彼女にもう一度会いたくて連絡をとったが、お互いの都合があわず、最後の日に少しだけ会うことになった。
待ち合わせたのは、難波・法善寺横町わきのバー「蒼 sou」だった。
早めに仕事を切り上げて午後6時に店に着くと、ミカはすでにそこにいた。一直線のカウンターの左端から、こちらを振り返った。
「しばらくぶりです。ロブロイを2つ、お願いします」
難波の中心部で、階段を1階上がるだけで、こんな静かな空間が広がっている。
マスターの浜本さんが、もの静かにカクテルを作って、僕とミカの前に置いた。
話すべきことはたくさんあるような気がしたが、お互い黙ってロブロイを口にしていた。
客で混みだす前の「蒼」はいっそう静かだった。会話はいらないと思った。
ミカは何度か、カウンターの横にある小さな窓から、外を眺めようとしていた。
高い位置に備え付けられたその窓からは、外の景色は見えない。
「大阪の夜の景色、最後に見たいの?」
「ううん、そんな未練はないわ。・・でも、私、もうロブロイは飲まないから」
「どうして?」
ミカは黙っていた。僕はそれ以上、何も聞けなかった。
しばらくして、ミカが沈黙を破った。
「あ、ううん、そんなに深い意味はないの。こないだ調べたのよ。『ロブロイ』って、スコットランドのアウトローの名前だったのね。私、勝手に華やかなイメージを持ってたわ。私はもっと、華のある名前のカクテルがいいの」
店を出て、2人で大阪駅へ向かった。午後7時30分に鳥取へ出発する『スーパーはくと』が来るのを、僕とミカはホームで待っていた。
「先生と知り合えたおかげで、お酒のこと、たくさん覚えたよ。お客さんにはいっぱい嘘をついたけど、先生といる時間に嘘はなかったわ。本当よ。先生と会ってるときは、『営業』なんて考えたことはなかったの」
「どっちが本当でどっちが嘘、ってことじゃないと思うよ。お店での君も、お店の外での君も、どっちも本当の君で、そのどっちもが素敵だった」
「ありがとう。・・・でも私、本当は先生のこと恨んでるのよ」
「えっ?」
「ホテルにまで連れていって、手を出さなかったのは先生だけだもん」
僕は、苦笑いして黙っているしかなかった。
――再び、沈黙が訪れた。
寂しさや悲しさは感じなかった。
小柄な彼女のまぶたが痙攣のように震え、濡れたまつ毛を揺らしているのを、僕は黙って見おろしながら、「営業」なんて言葉を思い出していた。
これからも、このようにして何人かの女性がきっと、僕の前から去っていくのだろう。
「スーパーはくと」がホームに着いて、ミカは顔を上げ、笑顔を作ってみせた。
「電車が出るまでの『間』が嫌いなの、もう行って」
「君の店が、いつか大阪にできることを楽しみにしてるよ」
「私じゃなくって、店なの?」
「『君の店』だから楽しみにしてるんだ」
僕もミカに最後に微笑みかけて、そこを去った。背後で電車の動き出す音が聞こえた。
「お帰りなさい」マスターの声を聞いた。
僕は再び、「蒼」へと戻っていた。とても喉がかわいていて、ジントニックを頼んだ。
別れ際のミカの話を思い出していた。
「sala del ray」での夜、僕は手を出さなかったんじゃない。単に眠ってしまっただけだ。もしあのとき起きていられたとしたら、僕はどうしていたんだろう。
僕とミカとの付き合いは、お互いの「営業」だったのだろうか。でもこれを「営業」というのであれば、人の世のつながりは、所詮すべては「営業」なのではないかとも思う。
しかし僕はそれ以上に考えるのをやめた。ミカがいっとき僕のそばにいてくれた、その事実だけでいい。
僕はジントニックを飲み干した。
「次はまたロブロイですか?」
「いえ、ロブロイは当分やめにします。こんどは・・ギブソンをお願いします」
ギブソンがグラスに注がれた。僕はカクテルグラスを両手でゆっくり引き寄せて、パールオニオンを取り出してかじった。 |
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第4話 了
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