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連載小説「373−2S」

連載小説 [373-2S]
■ 第4話【ロブロイ虚々実々】その4
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「さようなら。あなたとの結婚、悪いことばかりじゃなかったわ」

僕の事務所に依頼者の夫がやってきて、離婚届にサインをして帰っていった。
あとは、妻がこれにサインをしてから役所に提出すれば、協議離婚が成立する。慰謝料の残額と養育費は、夫が今後月々払っていく約束となった。

「子供のために、がんばって生きていきます。私に経済力なんてほとんどないのに、大丈夫かどうか、不安ですけど」
「そんなのは問題じゃないですよ。あなたとお子さんとで一緒に生きていくこと自体が尊いんです。あなたのお子さんは、あなたのその小さな力を必要としているんです」
僕は書類を整理しながら、事務的に、励ましの言葉をかけていた。
「ありがとうございます! がんばっていきます」と依頼者が目を潤ませていた。

自分の力の小ささを呪う人には、その小さな力が必要なことを強調してやる。
僕はいつも事務作業のようなつもりで依頼者を励ましている。それによって依頼者が元気づけられるのなら、それでいいと思っている。
依頼者と接していて、ときどき、ミカのことを思い出すことがある。ミカも店ではいつも、こんな気持ちで、客と、そして僕と接しているのだろうか、と思ったりもする。


ミカが実家の鳥取へ帰る日だった。
彼女にもう一度会いたくて連絡をとったが、お互いの都合があわず、最後の日に少しだけ会うことになった。


待ち合わせたのは、難波・法善寺横町わきのバー「蒼 sou」だった。
早めに仕事を切り上げて午後6時に店に着くと、ミカはすでにそこにいた。一直線のカウンターの左端から、こちらを振り返った。
「しばらくぶりです。ロブロイを2つ、お願いします」
難波の中心部で、階段を1階上がるだけで、こんな静かな空間が広がっている。
マスターの浜本さんが、もの静かにカクテルを作って、僕とミカの前に置いた。

話すべきことはたくさんあるような気がしたが、お互い黙ってロブロイを口にしていた。
客で混みだす前の「蒼」はいっそう静かだった。会話はいらないと思った。
ミカは何度か、カウンターの横にある小さな窓から、外を眺めようとしていた。
高い位置に備え付けられたその窓からは、外の景色は見えない。

「大阪の夜の景色、最後に見たいの?」
「ううん、そんな未練はないわ。・・でも、私、もうロブロイは飲まないから」
「どうして?」
ミカは黙っていた。僕はそれ以上、何も聞けなかった。
しばらくして、ミカが沈黙を破った。
「あ、ううん、そんなに深い意味はないの。こないだ調べたのよ。『ロブロイ』って、スコットランドのアウトローの名前だったのね。私、勝手に華やかなイメージを持ってたわ。私はもっと、華のある名前のカクテルがいいの」


店を出て、2人で大阪駅へ向かった。午後7時30分に鳥取へ出発する『スーパーはくと』が来るのを、僕とミカはホームで待っていた。


「先生と知り合えたおかげで、お酒のこと、たくさん覚えたよ。お客さんにはいっぱい嘘をついたけど、先生といる時間に嘘はなかったわ。本当よ。先生と会ってるときは、『営業』なんて考えたことはなかったの」
「どっちが本当でどっちが嘘、ってことじゃないと思うよ。お店での君も、お店の外での君も、どっちも本当の君で、そのどっちもが素敵だった」
「ありがとう。・・・でも私、本当は先生のこと恨んでるのよ」
「えっ?」
「ホテルにまで連れていって、手を出さなかったのは先生だけだもん」
僕は、苦笑いして黙っているしかなかった。

――再び、沈黙が訪れた。

寂しさや悲しさは感じなかった。
小柄な彼女のまぶたが痙攣のように震え、濡れたまつ毛を揺らしているのを、僕は黙って見おろしながら、「営業」なんて言葉を思い出していた。
これからも、このようにして何人かの女性がきっと、僕の前から去っていくのだろう。

「スーパーはくと」がホームに着いて、ミカは顔を上げ、笑顔を作ってみせた。
「電車が出るまでの『間』が嫌いなの、もう行って」
「君の店が、いつか大阪にできることを楽しみにしてるよ」
「私じゃなくって、店なの?」
「『君の店』だから楽しみにしてるんだ」
僕もミカに最後に微笑みかけて、そこを去った。背後で電車の動き出す音が聞こえた。


「お帰りなさい」マスターの声を聞いた。
僕は再び、「蒼」へと戻っていた。とても喉がかわいていて、ジントニックを頼んだ。
別れ際のミカの話を思い出していた。
「sala del ray」での夜、僕は手を出さなかったんじゃない。単に眠ってしまっただけだ。もしあのとき起きていられたとしたら、僕はどうしていたんだろう。

僕とミカとの付き合いは、お互いの「営業」だったのだろうか。でもこれを「営業」というのであれば、人の世のつながりは、所詮すべては「営業」なのではないかとも思う。
しかし僕はそれ以上に考えるのをやめた。ミカがいっとき僕のそばにいてくれた、その事実だけでいい。
僕はジントニックを飲み干した。

「次はまたロブロイですか?」
「いえ、ロブロイは当分やめにします。こんどは・・ギブソンをお願いします」
ギブソンがグラスに注がれた。僕はカクテルグラスを両手でゆっくり引き寄せて、パールオニオンを取り出してかじった。
第4話 了

カクテル一口メモ
ロブロイ(4):
 ものの本によると、ロブロイとは「紅毛のロバート」のことで、18世紀にスコットランドで名を馳せた、ならず者のあだ名だそうです。イングランドにおけるロビンフッドのように英雄視されていたらしい。
 ギブソンは、ジン+ベルモット+パールオニオン。マティーニのオリーブを、パールオニオンにかえたものです。
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