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「すみませんでした。僕に経済力がないもので。これ、とりあえず慰謝料として、受け取っていただきたいのですが」
離婚調停の相手方の夫が、突然、事務所を訪ねてきた。慰謝料の内金として、100万円を持参している。
「お互い弁護士がついてるのですから、弁護士を通してもらわないと・・」
「僕の弁護士は解任したんです。あの先生、ことを荒立てようとばかりしてるような気がして。僕はそんなつもりじゃなかったんですけど・・」
僕は依頼者に連絡した。
「やはりそうだったんですか。私は夫を信じていました。昔から夫は、筋を通す人で・・」
と、先日とは全く違うことを言っている。
「ところで、そんな立派な夫と、離婚するんですか」
「はい、その点は変わりません」
お互い、離婚意思には変わりはないらしい。僕はそれ以上に問わないし、考えもしない。
僕は事実に解釈を加えない。
仕事柄、男女関係の不可解さ、曖昧さは飽きるほどに見てきた。
いろんな事実を、一歩引いたところから、客観的に見てきた。
――そして、自分自身のことも、一歩引いて見るクセがついたように思う。
その日の夜10時ころ、ラウンジ「彩文」に行った。
「1か月ぶりね。もう来てくれないのかと思ったわ。ピンキーリング、今日もしてるよ」
ミカが小指を見せながら横についた。
今ここで、この前の話の続きはしたくない。ミカもそのことはわきまえていて、努めて明るい顔で無駄話をしてくれた。
夜の11時になって、勘定をしてもらうとき、僕はミカにこっそり言った。
「今夜は何時までいるの? そのあと、僕と付き合ってほしい」
「いいよ。12時に終わるわ」
「じゃ、『OTIS』で待ってる」
僕は「彩文」を出て、玉屋町筋を北に歩き、バー「OTIS」(オーティス)の扉を開けた。
「いらっしゃい。ああ、今日は遅いですね」
マスター藤谷さんの朗らかで大きい声が響いた。若手バーテンダーの眞鍋さんも、いつもどおりにこやかにカウンターの向こうに立っていた。
バックバーには、いつもどおり、ボトルが溢れ出さんかのように並んでいる。前に来たときから、また少し増えたようだ。
元はラウンジだったらしい店内は、壁面に鏡を用いて、少しだけ艶っぽい雰囲気がある。
そんな店内で、見たこともないリキュールで、聞いたこともないカクテルを作ってもらって飲んでいると、一瞬、ここが大阪ミナミであることを忘れそうになる。
そして、マスターの快活な声で、やはりミナミであることを思い出す。
12時を少し回ったころに、普段着に着替えたミカがやってきた。
「さっきはごめんね先生。気遣わせて。あ、私ロブロイを。ウイスキーはマッカランでね」
ミカは陽気に言った。勤めを終えた開放感と、この店の空気が、彼女の気分を明るくさせるのだろう。
「どうなったの、実家に帰る件」
「うん、仕方ないのかな、って考えてる。こっちに残れないのなら、帰るしかないよ。結婚する相手もいないし、自分の店を持つほどお金もたまってないわ」
そう明るく言ってから、少し間を置いて、ミカは付け加えた。
「先生が、面倒みてくれるのなら、話は違ってくるんだろうけどねっ」
ミカが本気でそれを言っているのかどうかは知らない。しかし、もしここで僕が、面倒をみると言ったらどうするのだろうとも考えてみる。
でも同時に、僕は自分でもあきれるほど冷静な頭で、答えを出している――たしかにミカのことは好きだったかも知れないが、今の僕が、彼女の一生に責任を持ってやるなんて、できはしないのだ。
「うん、たしかに、そういうのは考えたことなかったね」
僕も努めて明るく言った。深刻な話ほど、明るく言うほうが、お互いが傷つかない。
「もちろんそうよね。鳥取に帰るね、私。お店は今週いっぱいで『上がり』なの。再来週に帰る予定よ」
「えっ、そんなすぐだったの・・」
「最近、先生も忙しくて、お店に来てくれてなかったものね。今日、会えてよかった」
2人でロブロイをもう一杯ずつ頼んだ。ミカはほとんど一気にそれを飲み干した。
「先生と最後の一杯かも知れないね。鳥取に、こんなカクテルを作ってくれるバーはあるのかなあ」
グラスの底に残った赤いマラスキーノ・チェリーを、彼女はいつまでも転がしながら、その酔眼で眺めていた。
「OTIS」を出たのは2時過ぎだった。僕もミカも相当酔っている。僕は道頓堀の西のはずれのほうに、ミカを連れてきた。
「ほら、ここが『吉田バー』。大阪で一番古いバーだ」
当然、店はとっくに閉まっている。僕はミカと手をつないだまま、その隣にあるホテル「sala del ray」へと入った。
部屋に入るなり、僕とミカはベッドに突っ伏していた。
ミカは僕の耳元でいう。
「薬指のリングをねだったらよかったな。・・ねえ先生、一緒になってよ」
「考えたことないよ。ごめん・・」
薄れていく意識の中で、ミカの声を聞いていた。
「クールなのね・・」
朝になって、僕とミカは服を着たまま寝ていたことに気づいた。
「ごめん。・・時間だから、行くね」
朝の8時をまわっていた。地下鉄の入り口までミカを見送ってから、オフィスへと向かう。
「ひどい夜だったな、これで最後かも知れないのに」
出勤時の人ごみの中で僕はつぶやいた。朝日がまぶしかった。 |
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つづく・・・
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