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連載小説「373−2S」

連載小説 [373-2S]
■ 第4話【ロブロイ虚々実々】その2
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「夫はひどい男なんです。結婚した当初から私に嘘ばかりついて、甲斐性なんかないのに愛人なんか作って。養育費を払うくらいなら子供は自分が引き取るとかいうんです。育てる覚悟もないくせに」

土曜日の午後の事務所で、僕は依頼者の話を聞いている。事務所が休みの日に、どうしても相談したいというから会ったが、話は夫の愚痴ばかりだ。
離婚調停は難航している。離婚すること自体には合意できているが、慰謝料などの条件が折り合わない。たぶんこの先、調停は決裂し、正式裁判となるだろう。
「こんなひどい夫から、どうして慰謝料を取れないのですか」
「慰謝料の支払義務と、支払能力は別問題ですから・・」
依頼者の愚痴は続く。――「そんな夫を、なぜ選んだのですか」という言葉が出かかっているのを、僕は我慢している。


その日、ミカの誕生日だった。夕方に、僕とミカは梅田で落ち合った。誕生日のプレゼントに指輪を買ってあげることになっていた。
「ピンキーリングがいいわ。薬指のリングは、先生の彼女さんに買ってあげて」
阪急百貨店のショーウィンドウを眺めて、ミカが選んだのは、小指用のピンキーリングだった。

日が暮れた梅田の街を、僕とミカは歩いていた。今日は「同伴」ではない。
なじみのホステスは何人かいるが、プライベートで会うことはない。なぜかミカだけは特別で、これまで何度か、休日に会って食事に行ったりした。


お初天神の境内を過ぎようとしている。
「ねえ、『曽根崎心中』の話、結末はどうなるんだっけ」ミカが言った。
「ええと、お初と徳兵衛が手を取りながら、曽根崎の森に入って心中する、っていうんじゃなかったかな」
「ふうん・・・ねえ、一度はそれくらいの恋愛をしてみたいと思わない?」
「そう? 僕にはできないと思うな。人に対してそこまでの気持ちになることは」
「クールよね。先生はいつでも」

――感情の起伏がない、と人からよく言われる。自分でもそう思う。
腹を抱えて笑ったとか、我を忘れて怒ったとかいう経験をしたことがない。大人になってからは泣いたことがない。特定の女性をどうしようもないほど好きになったこともない。
そして、それらのことを悲しいとも思わない。


お初天神の裏手にある、バー「ブロッサム」の扉を開けた。
表通りから一本入った場所、やや照明を落とした店内が、いかにも、世間から隠れて酒を飲んでいるような感じがする。
マスターの小西さんは、梅田のバーで修業したあと、自分の店を開いた。至って真面目で朗らかなバーテンダーだ。
店のムードを黒とすれば、マスターは白。そのコントラストがいい。

カウンターに2人並んで、ロブロイをオーダーした。
「どんな感じにしましょうか」
「うーん、個性のあるのを」
「じゃ、今日は『ブラックボトル』を使ってみましょうか」

ミカは、出されたカクテルグラスの足を指で撫でながら、沈黙している。
彼女が何か話を切り出すときのクセだ。
指輪を買ってあげたところだから、「おねだり」ではないだろうなどと考えながら、その横顔の陰影を見つめている。

「実は・・両親から、実家に帰れといわれてるの」
「え・・」
ミカが切り出したのは意外なことだった。
「実家の父が、体を悪くしたみたいで。だから家の仕事を手伝えって」
「たしか鳥取だったよね。実家の仕事、何をしてるんだっけ」
「あまり言いたくないけど・・らっきょの瓶詰めを作ってるの。小さい工場なんだけどね。両親は、私の仕事のことを知ってるわ。父も年がいってきたし、いつまでもこんなことしていないで戻れって」

僕はグラスを口にして、ロブロイでのどを湿らせた。
「で、帰るつもりなの? 鳥取に」
「両親はね、私がいつまでも根無し草みたいにしてるのが嫌なんだって。大阪に残るんだったら、結婚するか、自分の店を持つかしろっていうの。そこまでの覚悟がないなら、戻ってこいって・・でも私、らっきょの瓶詰めの手伝いなんて嫌」

僕もミカも黙っていた。2人とも、グラスが空になっていたのに気づき、マスターにロブロイをもう1杯ずつ頼むと、話すともなく、ただただ早々とグラスを空けた。
酒がまわってきた。店の中の陰影がミカを捕らえて包み込んでしまうような、そんな錯覚を覚えた。


「ブロッサム」を出て、二人でお初天神通りを歩いた。
気がつくと、僕はミカと手をつないでいた。同伴のときは、ミカは店まで僕と腕を組んで行ってくれる。でも、考えてみればこれまでミカと手をつないだことはなかった。

「このままずっと、先生と歩いてたいなあ」
僕が黙っているのを見て、ミカは付け加えた。
「今日は営業トークじゃないんだからねっ」
僕は、自分でも何を思ったのか、ポツリとつぶやいていた。
「曽根崎の森って、どっちにあるんだろうね」
通りを抜けると、梅田の喧騒が広がっていた。
「森なんて、もうないのよ・・これからの道は、私たちが決めるの」
僕はミカの言葉を頭の中で反芻していた。なぜ私「たち」なのかは聞かなかった。
つづく・・・

カクテル一口メモ
ロブロイ(2):
  マンハッタンのスコッチ版ですから、マンハッタンよりはすっきりした味わいで僕は好きです。もちろん、スコッチウイスキーの選択によって、個性的な味わいにもなります。文中に出てくる「ブラックボトル」は、7種類のアイラモルトをブレンドしたウイスキーです。
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