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「正義の判決ですね、先生!」
1000万円の請求を受け、判決で認められた賠償金の金額は、2万5000円だった。
数日間の治療費だけだ。それ以上の分については、「因果関係がない」と棄却された。
美容室の店長は、判決をよほど見てほっとしたらしい。
「いっそ、記者会見でも開きたいですね、先生!」
のんきなものだ。自分の責任が一部は認められたことを忘れてしまっている。
「記者会見・・ま、お好きにしてください。僕は遠慮しときます」
僕にとっては、日々の仕事が一つ片付いたという以上の感慨はない。
業務をすませたら、あとは夜の街に繰り出したい。それ以上に、事件に深くかかわるつもりはない。この件もこれで一件落着だ。
今ごろ、オーディションの結果がアヤに届いているはずだ。
今夜のアヤとの待合せは夜の10時。アヤが教えてくれた店に一足先に行ってみる。
東心斎橋・清水町通り――いつもよく通る道に、こんなバーがあるということを知らなかった。
「Bar Agreable」・・アグレアブル
小さなビルの3階の一画、重厚な扉を開けると、やや照明を落とした店内にL字型のカウンターがひかえている。
「いらっしゃいませ」マスターが静かにいう。
「アヤという方と待合せです」
「お聞きしておりました。どうぞ」
バックバーのボトルの数は多くはない。しかしよく見てみると、今や入手しにくいオールド・ボトルばかり。酒場の先達たちが、昔のウイスキーはもっとうまかったという、そのころの酒が並んでいるのだ。
このマスターが、アヤに初めてハーベイウォールバンガーを出したらしい。
「こんばんはマスター」
ほどなくアヤがやってきて、静かに僕の隣に座り、やはりハーベイウォールバンガーをオーダーした。
しばしの沈黙のあと、僕は尋ねた。
「オーディションの結果、どうだったの?」
「・・・。ダメだったわ。もう、これで何回目かなあ。やっぱりもう、年かな。30近いんじゃ」
「そう・・。また、がんばればいいよ。30歳になったら、30歳の魅力が出てくるさ。そんながんばる君を、きっと誰かが見てるから」
アヤはグラスを一気に飲み干した。
「マスター、もう一杯、ハーベイウォールバンガーを」
僕は波乗りのハーベイの話を思い出していた。サーフィンの大会で敗れた彼が作ったというこのカクテルには、敗北、嘆きという影がつきまとう。考えてみればこれは不幸のカクテルなんじゃないか。
僕はアヤに、このカクテルの由来、ハーベイの物語を話した。
「――だから、縁起をかつぐわけじゃないけど、他のカクテルを飲んだほうがいいんじゃない?」
「あれ、それは僕が聞いている話と違いますね」
マスターの眞田さんが口をはさんできた。
その話によると――ハーベイは、実はサーフィン大会で優勝していたのだという。
このカクテルは、ハーベイが優勝を祝って、朝まで飲んでいたカクテルなのだと。
カクテルの名前の由来にはいろんな説がある。マスターは、ハーベイが優勝した話を信じて、アヤがオーディションに合格することを祈りながら、このカクテルを作っていたのだろう。
「そうか、じゃ、僕も今日から説を変える。ハーベイ優勝説を信じよう」
「うん、幸運のカクテルね。私、30になったら、30の女の魅力を磨いてみる。これからもがんばるから」
アヤはすでに3杯目を空けようとしている。
終電の時間が近い。
アヤと僕の目が合う。
―――今夜は、朝まで飲まないか
その台詞を言おうとしたとき、アヤの携帯電話が鳴った。
「こんな時間に事務所からだわ。ごめんね」
彼女は店の外に出た。しばらくして、少し興奮した声が聞こえてくる。そして彼女は上気した顔で扉を開けて戻ってきた。
「こないだのオーディションの審査員でね、私のことを気にいってくれた人がいるみたいなの。明日、その人の主宰するオーディションがあるから、受けてみないかって、事務所に連絡があったらしいの。ほんと、こんな私でも誰かが見てくれてるのよね。ああ、今夜は3杯も飲んじゃった。早く帰って、半身浴しないと! じゃ、またね!」
アヤはバッグを提げると風のように店を出ていった。
僕はあっけに取られたまま、アヤが出て行った扉を見つめている――今夜も、やっぱり一人か。
カウンターの向こうで、マスターが肩をそびやかして見せた。
僕はマスターに向き直って言う。
「ハーベイウォールバンガーを」
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第3話 了
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