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「先生、700万くらいで手ェ打ちませんか。いや、500万くらいでも、何とか話つけさせてもらいますで」
美容室を訴えた裁判の証人尋問が明日に迫っている。その夜、原告の「代理人」と名乗る人間から、僕の事務所に電話がかかってきた。もちろん、弁護士ではない。この事件の裏で手を引いている輩だろう。
「弁護士以外の代理人と話すつもりはありません。この件は明日、法廷できっちりと決着をつけさせてもらいます」
「まあ、話を聞いてくださいよ、先生」
「結構です。取り込み中ですからこれで失礼します」
僕は電話を切った。
こんな輩に取り合う必要はない。早く出かけよう。アヤとのデートのほうがよほど大切だ。
その日の夜は、アヤと梅田で落ち合った。アヤはその日の夕方、阪急百貨店でマネキンをするらしい。
「こんどは見に来ないでね」
と言われたので、時間どおり、午後7時半に阪急百貨店に行った。
「次は、あなたが仕事してるところをみたいわ」
とアヤが言うから、2人で梅田から西天満まで歩いた。当然、裁判所はもう閉まっている。
「裁判があるときは、まじめにここで仕事やってるよ。明日はここで、証人尋問をやるんだ。あ、そうだ、ここまで来たんだから・・」
裁判所の西側、夜には人通りも途絶えてしまうような路地の小さなビルに、「Bar蓮」の看板がある。
僕とアヤは階段を降りて、地下のこの店に入る。
西天満の夜は静かだ。この店も、ビルの地下1階で静かに客が来るのを待っている。
扉を開けると、幅の広いカウンターの向こうに、マスターの金子さんがきりりとした佇まいで立っている。今夜も、きっといい時間が過ごせそうだと思いながら、席に着く。
バックバーには、ウイスキーはもちろん、最近あまり流行っていないブランデーも数多い。金持ち趣味の弁護士にブランデー好きが多いからというのではない。
「お客様には、ゆっくり過ごしていただきたいんで、本当においしいブランデーを、ゆっくりと、味わってほしいんです」
そんなマスターの店で時を過ごす幸せ。北新地のクラブしか知らないような弁護士にならなくてよかったと心から思う。
「オーディションはあさってなの。緊張してきたなあ」
アヤがハーベイウォールバンガーを飲みながら言う。
「オーディションが近づくとね、いろいろ疲れるものなのよ。モデルの世界だって競争が激しくて、足の引っ張り合いもザラなの。いろんなとこに変な噂流す人もいるし。私自身、ここ最近、あのミネラルウォーターのボトルが2回なくなったのよ。誰か知らないけど、そんなことして、自分がみじめにならないのかな」
バックバーの片隅に、レミーマルタンのシンボル、ケンタウロスをかたどった小さな銅像が2つ、ブックエンドがわりに立てられている。数冊の本をはさんで、ライトのあたるほうと影になっているほう、2体のケンタウロスがせめぎあっているように見える。
僕はアヤの話を聞きながら、さっきの電話のことを思い出していた。
世の中のどこかに、日なたと日陰を隔てる「壁」があり、壁の向こうには、多くの魑魅魍魎が住んでいる。それらは、日陰の世界からこちら側をうかがっていて、ときに手を伸ばして日なたの世界の人間の足をひっぱろうとしている――。
そんなことをぼんやり想像しながら黙っている僕を見て、アヤは言った。
「ごめん、暗い話だったよね」
「ううん、いいんだ。僕らは僕らでがんばるだけだね。壁のこっち側でね」
「え、壁・・?」
「あ、いや、別に・・」
アヤは話題を変えて、明るい声で言った。
「でも、私、この仕事が好きよ。年を取っても、この仕事はやめたくない。何があっても、この仕事でやっていきたいって思うわ」
僕自身はどうなんだろう。僕は法律が好きとも、弁護士業が好きとも思ったことはない。食っていくために知識を身につけた。職業だからやっている。職業っていうのは、好きとか嫌いとか、そういう次元を超えたところにあるものだと思っている。
でも、自分の仕事を単純に好きだと言い切れるアヤが、少しうらやましくも思った。
「蓮」を出て、裁判所を横目に眺めながら歩く。
「オーディションの健闘を祈ってるよ」
「あなたもね。明日はここで、法廷に立つんでしょ」
「ああ、魑魅魍魎を相手に戦ってるよ」
「がんばろうね・・。ねえ、私がオーディションに合格したら、一緒に乾杯してよ。私だって、たまには仕事のことなんか忘れて、朝までお酒を飲んでみたい」
「うん、そのあかつきにはきっと、ハーベイウォールバンガーで乾杯しよう! 朝まででも付き合うよ」
アヤの凛然とした横顔を見て、彼女はきっとだいじょうぶだ、と思った。
明かりの消えた裁判所に目をやる。自分も明日は負けられない、と思う。 |
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つづく・・・
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