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「先生、すみませんでした。会社にちゃんと給料払わせますから、差押だけは解除してやってください」
会社の銀行預金の差押をした直後、会社側の弁護士があわてて電話してきた。
取引銀行の預金を差し押さえられたのが、会社にとってよほど不名誉なことなんだろう。
「早く不払い分を払ってください。来月からも正規の給与をきちんと払ってください。そうでなければ、また差押をしますから。・・それにしても、こうなることくらい、わかってたでしょ。どうして社長にきちんと払ってくれるよう言ってくれなかったんです?」
僕の問いに対し、会社側の弁護士は曖昧に笑った。
気持ちはわかる。弁護士も客商売。強情な客には、なかなか強くは言えない。
解決の糸口が見え、少しは心も晴れた。
金曜の夜だ。心斎橋筋を行き交う人がいっそう多くなっている。
その人混みを抜け出て、ユキと待合せをしている東心斎橋・清水町通りの「M's tavern」(エムズ タヴァーン)に着いたのは夜8時の少し前。
店の中ではマスターの中島さんが陽気に客と話している。
カウンターの上には、シングルモルトウイスキーのボトルが並んでいる。
一つ一つ、マスターの手書きのプレートが首からさげられてある。
マスターが楽しげにこの作業をしているときの様子が何だか目に浮かぶようだ。
「うちのボトルには全部、愛称をつけてるんです」
マスターから聞いたことがある。本当か冗談かわからないが、ウイスキーに対する愛情がこっちにまで伝わってくる気がして、僕もつい、その「愛称」でボトルたちに呼びかけてみたい気になってしまう。
僕が椅子に腰を落ち着けて、そのボトルたちと向かい合ったとき、店の扉が開いた。
ユキだ。今夜は時間通りにやってきた。
「こんばんは先輩。わあ、ここも素敵なお店ですね。マスター、ラスティ・ネイルをお願いします」
「じゃ、僕も。僕はドランブイ少なめで」
僕とユキの前にラスティ・ネイルが2つ並べられた。
「いつもラスティ・ネイルだね。好きなの?」
「ええ」
ユキは出されたラスティ・ネイルを一口飲んで、少しだけ沈黙した。
「でも、ちょっと違うかな・・」
「お口に合いませんでしたか?」
マスターが気遣って尋ねる。
「あっ、ううん、すごくおいしいです。ただ、私が前に飲んだ味とは違うってことなの。あのね、私が飲んだラスティ・ネイルは・・涙の味がするのよ」
「涙の味?」僕はユキに尋ねた。
ユキは話した――。
ユキは僕が合格した翌年の司法試験に、さらに失敗した。そこまでは僕も知っている。
そのあとユキは、勉強に専念するため、それまで長い間付き合っていた彼を振ったという。
ユキはミナミのとあるバーで彼に別れ話を切り出した。すると彼は「分かった」といいつつラスティ・ネイルをオーダーし、ユキに飲ませてくれた。
そして言った・・
「けど、僕はすごく悲しいんだ。ほら、今夜のこのカクテル、涙の味がするだろ」
たしかに、そのラスティ・ネイルは、かすかながら涙の味がしたらしい。
そしてそのとき、ユキと彼は、そのバーで、3年後の同じ時間に会う約束をした。
「僕は今の悲しみを克服できるかどうかわからない。3年後、この店で、一緒に飲んでくれる? そのときの僕の気持ちは、この店でラスティ・ネイルを飲んだら、きっとわかってくれると思う」
それが彼の最後の言葉だった。
「そのバーは千年町の仏蘭西館にあったの。でもこないだそのビルに行ってみたら、そのお店、なくなってたのよ。私は彼との約束を守るつもりだったんだけど、店がなくなってしまったんじゃ、彼もきっと来ないわ。ああ、私、もういいんです。彼のことは」
僕とマスターの目が合う。マスターはすべて察したようで、にこりと微笑んだ。
僕は目くばせを送って、黙ってもらう。
「彼との約束の日はいつ?」
「ちょうど1週間後。来週の金曜日、夜の7時半よ」
「そう、じゃ、そんなアテにならない約束なんか捨ててしまって、その日、僕と飲みにいこうよ。 ―― タネ明かしをしてあげるから」 |
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つづく...
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