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「先生、早く僕の給料取り立ててくださいよ」
依頼者は、会社から、勤務態度不良を理由に賃金を3万円カットされた。
僕が会社を訴えて勝訴した。賃金を元の額に戻し、これまでの不払い分も払え、との判決を取ったのだが、会社は未だ支払おうとしない。
依頼者からしきりに催促の電話がかかってくる。
会社側の弁護士に頼んでも、
「いやあ、私もきちんと払うように指導してはいるんですがねえ。あの社長も強情で・・・」
とあてにならない。
「判決は紙切れですか」と、依頼者はやたら電話をかけてきては憤懣を僕にぶつけてくる。
金額は多くはないが、面倒な事件になりそうだ。
その夜、宗右衛門町を歩いた。
宗右衛門町はいつからこんな街になってしまったのだろう。安手の風俗店がひしめきあい、客引きの若い男が、下卑た笑いを浮かべながら寄ってくる。
そんな連中をかわしながら、大和屋ビルまで歩く。
宗右衛門町は荒廃し、大和屋は店を閉めてしまったが、その脇にある小さな扉には、ほのかな一筋の光があてられている。僕は逃げ込むようにその扉を開ける。
扉の向こうには、地下に続く長い階段がある。
暗い長い通路の果て、最後の扉が開くと、白い壁に一瞬まぶしさを覚える。
そこにバー「陽のあと」のカウンターがある。
地底の隠れ家とも言いたいこの静謐な空間で、僕は一人グラスを傾け、人を待つ。
今夜この店で、久しぶりに、ユキに会う。夜8時に待ち合わせだ。
すでにユキは20分遅刻だ。グラスのジントニックはもう空になりかけている。やがて階段を慌しく下りてくる音が聞こえ、扉が開き、ユキが現れた。
「遅れてごめんなさい! この店、見つけにくかったんで・・あ、私、ラスティ・ネイルをください。ああ、それから、おひさしぶりです、先輩!」
ユキは息せき切って一気にいうと、僕の隣に座った。
「役所の仕事は慣れた?」と僕は尋ねる。
「ええ、もう2年目ですもんね」
ユキは僕より3歳年下の28歳。僕が司法試験の受験生だったころ、予備校で知り合った。
僕は一足先に司法試験に受かったが、ユキは何度か受験に失敗し、その後、地方公務員試験に転向し、合格した。今は県庁に勤めている。
「地方公務員なんて地味な仕事って思ってたけど、県の大きなプロジェクトに関われてやりがいあるんですよ。こんど私の課の仕事に2億円の予算がついたんです。でも、先輩は弁護士だから、もっと華やかで大きな仕事してるんでしょうね」
「いや、数万円の事件に毎日追われてるよ・・」
僕が司法修習生だったころ、ユキは僕によく電話をかけてきた。
司法試験の勉強が進まないとか、付き合っている彼とうまくいかないとか、他愛のない愚痴も、よく聞かされた。
公務員になってからは仕事に忙しいのだろう、電話してくることはなくなったが、先週、唐突に電話をかけてきて、今夜会うことになった。
2年ぶりに会うユキは、以前に比べれば、少しは落ち着いてきたようだ。何より、社会に出てキャリアを重ねている自信が顔に表れている。
お互いの近況について、一通り話した。
別にどうということもない会話が続き、何杯かグラスを空けた。
「彼とは今も付き合ってるの?」聞こうと思ったが、下世話なように思えてやめた。
「陽のあと」の長い階段を上り、店を出て、御堂筋まで一緒に歩く。
「じゃあここで。気をつけてね」
「今日はありがとうございました」ユキは背中を向けて、歩いていった。
女性とお酒を飲んだ別れ際、僕はいつも期待している。
「もう一杯付き合ってよ」
「朝まで飲もうよ」
と言ってくれることを。
そしてその期待はいつも裏切られる。
今夜も、ユキは振り返りもせず地下鉄の階段を下りていった。
ユキはなぜこの時期にとつぜん電話してきたのだろう。何か特別な話でもあるのかと思っていたが、僕の思い込みなのだろうか。
宗右衛門町の灯は明るい。
踵を返して、再び宗右衛門町の喧騒に身を投じた。
今夜も一人で、次の扉を求めてさまよっている。 |
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つづく...
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